1846~48年の戦争でカリフォルニアを獲得したアメリカは,太平洋での捕鯨などの活動のために日本に補給基地を求め,1853年,率いるアメリカ艦隊が来航し,開国を迫った。江戸幕府は,翌54年に再び来航した[ 2 ]とを結び,鎖国体制は崩壊した。さらに1858年,を結び,自由貿易を認めて本格的に開国した。対外的危機のなか,下級武士層を中心とする討幕運動が起き,幕府の大政奉還を経て,年に天皇を中心とする明治政府が成立した(明治維新)。明治政府は,富国強兵をめざして工業や軍事の近代化を進め,ドイツ憲法にならって1889年に(明治憲法)を発布し,翌90年に議会を開設して立憲君主政を整えた。立憲君主政のもと近代化をとげて欧米の圧力をはね返した明治維新は,アジア諸国にとって成功モデルとみなされるようになった。
「アジア最初の憲法」は,オスマン帝国で1876年に発布された憲法。正誤問題では,「[ 6 ]がアジア最初の憲法」というウソに注意!!
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XII-51. 明治維新後の日本と近隣諸国の関係
(1)1871年に日本は清朝と平等条約であるを結んで国交を樹立した。(2)は日本と清にしていたが,明治政府は1872年に[ 2 ]藩とし,清との冊封・朝貢関係を断絶させ,79年にを設置した。1871年に清の領土であるに漂着した宮古島島民が[ 5 ]先住民に殺害されたことを理由に,日本は[ 5 ]出兵を行ったが,駐清イギリス公使の仲介で協定が結ばれ,日本軍は撤兵した。(3)1875年にロシアと・交換条約を結び,[ 6 ]をロシア領,[ 7 ]列島を日本領とした。
[ 5 ]出兵では,[ 2 ]人は日本人か,また[ 5 ]先住民は清の支配下にあるのかが問題となった。
XII-52. 朝鮮をめぐる情勢(1)
朝鮮では,1863年にが即位したが,その父が摂政として実権を握っていた。17世紀以降,朝鮮は清と日本の2国としか外交関係をもっていなかった。しかし,19世紀後半になると欧米列強の圧力は朝鮮にもおよび,1860年代にアメリカやフランスが開国を求めたが,[ 2 ]は開国を拒否していた。1873年に[ 2 ]は王妃(閔妃びんひ)一族により失脚させられたが,対外政策は変わらなかった。1875年,日本は軍艦を派遣して圧力をかけ,を起こし,翌76年に領事裁判権を認める不平等条約であるを結び,釜山など3港を開港させた。こうして開国させられた朝鮮では,清との関係を重んじる保守・排外的な事大党と,明治維新をモデルに近代化をめざそうとする勢力が争うようになった。
朝鮮は,江戸幕府の将軍が替わるごとに祝賀をかねて,を日本に派遣して,交渉を行っていた。
XII-53. 朝鮮をめぐる情勢(2)
1876年のにより開国した朝鮮では,清との関係を重んじる事大党と,日本に接近して急進的な改革を図ろうとする(独立党)が優勢となった。1882年に開化政策に不満を抱く旧式軍隊が高宗の父を擁立して反乱を起こす()と,清軍がこれを制圧し,清が後ろ盾となって一族が優勢となった。[ 2 ]の中でも急進的なは,1884年に日本の武力を借りて[ 5 ]政権を倒そうとした()が,清朝軍に鎮圧されて,朝鮮に対する清の影響力は強まった。朝鮮は,清を牽制するため,ロシアへの接近を図ったが成功せず,清によって派遣された袁世凱が大きな権限を振るった。
(1)[ 7 ]に際し,日清両国軍が朝鮮に派遣されたため,1885年に両国はを結び,両国軍の撤兵と,将来出兵する際における事前通告などを約した。(2)[ 6 ]は福沢諭吉のもとで学び,福沢は[ 7 ]を支持していた。しかし,これが失敗に終わると福沢諭吉は,清や朝鮮との連帯は困難だと見なし,独力で西洋を目標として進むべきだとする「脱亜論」を説いた。
XII-54. 日清戦争
19世紀半ばの朝鮮では,儒教・仏教・道教の3教を融合したを創始した。[ 1 ]は民を惑わす者として逮捕・処刑されたが,19世紀末に[ 2 ]は広がり,1894年に[ 2 ]の指導者が立ち上がり,農民を主体とした([ 2 ]党の乱)が勃発した。この反乱の鎮圧のために日清両国軍が出兵し,が勃発した。清朝の北洋艦隊は日本海軍に敗れ,日本が勝利を収めて1895年に結ばれた条約で,清朝は(1)朝鮮の完全独立を認めた上で冊封・朝貢などを廃止し,(2)日本へ半島・・諸島を割譲,(3)日本への賠償金2億両(テール)の支払い,(4)日本に対し西欧列強と同等の通商上の特権を付与することなどを約した。朝鮮の独立により,清は冊封関係にあった主要国を失い,古来から続いてきた冊封体制は崩壊し,東アジアも近代ヨーロッパが作り上げた国際法の体制の下に置かれることとなった。
[ 7 ]半島に関しては,南下を狙うロシアが,フランスとドイツを誘って日本に圧力を加えて返還させ(),ロシアはの敷設権を得た。
XII-55. 日露戦争(1)
朝鮮は,日清戦争の最中から身分制や科挙制度の廃止するなどの近代化を進めた。日清戦争後,政権はロシアに接近して親日派を排除したため,日本公使らが[ 1 ]を殺害した。1897年,朝鮮は国号をと改めて皇帝の称号をもちい,清や日本と対等であることを示した。中国で1900~01年に起きたに際し,ロシアは中国東北地方(満洲)を占領し,(辛丑和約)が結ばれたのちも撤兵しなかった。中央アジアと中国でロシアの南下の圧力を受けていたイギリスは,(ボーア戦争)を戦っていて余力がなかったため,1902年にを結んでロシアに対抗した。を唱え,ロシアの南下を警戒していたアメリカも日本を支援した。この情勢下,ロシアが朝鮮半島に対する圧力を強めたため,日本の安全保障が脅かされた。その結果,日本はロシアとの開戦を決意し,年に日露戦争が勃発した。イギリス・アメリカは財政面などで日本を支援した。一方,を結んでいたフランスはロシアを支援した。
(1)[ 6 ]を結んでいたイギリスと,[ 9 ]を結んでいたフランスは,同盟関係において敵対していたため,日露戦争が勃発すると協議を行い,を締結した(参照:VI-15)。(2)[ 9 ]はドイツに対抗するものであったが,ドイツはバルカン半島でロシアと対立していたため,ロシアの関心をヨーロッパからアジアに向けさせるため密かにロシアの極東政策を支援していた。
XII-56. 日露戦争(2)
日露戦争で日本は,ロシアの租借地であった・大連を占領し,奉天会戦および日本海海戦でロシアを破った。ロシアでは,1905年にをきっかけにが勃発して戦争継続が困難となっていた。一方,日本も長期戦を戦う経済力がなかった。そこで日露両国は,アメリカ大統領の調停に応じ,年にを締結した。日本はロシアから,北緯50度以南の,[ 1 ]・大連の租借権,東清鉄道の南半分(長春~大連間)を獲得した。また,[ 6 ]で日本は,韓国に対する指導・監督権をロシアに認めさせた。
(1)日本は[ 6 ]で賠償金を得られなかったため,これに反発した民衆による日比谷焼打ち事件が起こった。(2)東清鉄道の南半分を日本はとして経営した。(3)日本は[ 1 ]・大連に関東州を置いたが,関東州と[ 8 ]を守備する部隊としてが置かれた。(4)日本とロシアは1907年に結んだで,満洲における両国の権益を調整(北部はロシア,南部は日本)した。また,英露も接近し,同年英露協商が結ばれた(参照:VI-26)。
XII-57. 韓国併合
日本は,日露戦争中の1904年に日本人の財政と外交の顧問をおくことなどを大韓帝国(韓国)に認めさせた第1次を結んだ。日露戦争の講和で日本は韓国における優越権をロシアに認めさせ,同年05年の第2次[ 1 ]で韓国の外交権を奪って保護国化し,を初代の韓国として派遣した。これに対し韓国は,1907年に皇帝のがオランダので開催されていた万国平和会議に使節を派遣して,第2次[ 1 ]の無効を訴えようとしたが失敗した([ 6 ]密使事件)。これに対し,日本は[ 5 ]を退位させ,第3次[ 1 ]で韓国政府はすべてにおいて[ 4 ]の指導を受けることとし,韓国軍隊を解散させた。韓国では,日本に武力で抵抗するや,教育によって救国をめざす愛国啓蒙運動がおこった。そのようななか,1909年にハルビンで[ 3 ]がによって暗殺されると,日本は年に韓国を併合した。日本はソウル(京城)にを置いて,と呼ばれる強圧的な統治を行った。
XII-58. 朝鮮統治政策の変更
第一次世界大戦中にアメリカ大統領がを発表しての気運が高まると,年に「独立万歳」を叫ぶデモがソウルから全土に広まった。これをという。は軍隊も動員して鎮圧したが,この事件に衝撃を受けた日本はそれまでの強圧的なをゆるめて,と呼ばれる同化政策に転換した。年に日中戦争が始まると,神社の参拝や皇居の方向に敬礼(遙拝)する皇居(宮城)遙拝などを強要するを展開した。また,日本の家族制度を持ち込む,も行われた。
[日本国内の動き]第一次世界大戦を背景としておきた物価騰貴に対して,と呼ばれる民衆騒動がおきた。大正デモクラシーの風潮のもと,1925年には,25才以上の男性に選挙権を与える男性普通選挙法が成立したが,同時に労働運動・大衆運動を弾圧するが制定された。
XII-59. 東アジアをめぐる日本とアメリカの対立
日露戦争を境に,日本とアメリカの関係は大きく変わった。日露戦争時はロシアの南下を警戒したアメリカは,日本を支援していた。1907年,日仏協約で日本の韓国における優越権・フランスのインドシナにおける優越権を日仏双方が相互承認し,またで日露両国が中国東北地方(満洲)における利権を分け合った。この結果,日本と英・仏・露の提携が成立し,満洲への米資本の参入をうかがっていたアメリカは孤立した。第一次世界大戦中の1915年に日本が政府に突きつけたは,欧米列強の日本に対する警戒心を強めた。そのため,日本は海軍艦艇をヨーロッパに派遣して連合国の作戦に協力し,アメリカとは石井=ランシング協定を1917年に結んだ(参照:XII-26)。1921~22年のは米英が日本を抑えようとするものであった(参照:VI-58)。この状況下,アメリカで1924年に成立したでは,日本人を含むアジア系の移民が事実上禁止されて日米関係が悪化する原因となった。