カテゴリー別アーカイブ: 3.中世ヨーロッパ

III-21. ローマ=カトリック教会の成立

ローマ教会は,8世紀に起きた聖像( [ 1.イコン ] )をめぐる問題でコンスタンティノープル教会との対立を深めた。この状況下,ビザンツ皇帝に代わる新たな保護者を求めたローマ教皇はフランク王国の [ 2.カロリング ] 家に接近した。その後, [ 3.1054 ] 年に東西教会は分裂し,教皇を首長とする西方のローマ=カトリック教会と,ビザンツ皇帝を首長とする東方の [ 4.ギリシア正教会 ] に分かれた。ローマ=カトリック教会では,教皇を頂点とし大司教・司教・司祭などからなる階層制組織が作られた。

III-22. 教会刷新運動

大司教や修道院長などは,国王や貴族から荘園を寄進されて大領主となった。教会や修道院が荘園を所有するようになると,聖職と付属の荘園を売買する [ 1.聖職売買 ] が横行するようになった。また,カトリックにおいては禁じられていた,聖職者の [ 2.妻帯(結婚) ] などの弊害も見られるようになった。11世紀にフランスの [ 3.クリュニー ] 修道院が始めた教会刷新運動は, [ 4.叙任権 ] 闘争を闘った教皇 [ 5.グレゴリウス7世 ] の改革へと発展した。

III-23. 叙任権闘争

皇帝や国王は封土の授与権を有しており,それにともなって大司教や修道院長を任命する権限である聖職 [ 1.叙任権 ] を皇帝がもっていた。聖職売買などの弊害を改革しようとするフランスの [ 2.クリュニー ] 修道院による改革運動をおしすすめた教皇 [ 3.グレゴリウス7世 ] は,[ 1 ]を教会の手に取り戻そうとした。皇帝 [ 4.ハインリヒ4世 ] がそれに反発し,[ 1 ]闘争が起きた。教皇[ 3 ]から破門されて孤立した皇帝[ 4 ]は, [ 5.1077 ] 年に [ 6.カノッサ ] で教皇に謝罪した。その後, [ 7.1122 ] 年の [ 8.ヴォルムス ] 協約で,皇帝は封土の授与権は持つが,聖職[ 1 ]は教皇が持つという妥協が成立した。
check_icon6叙任権闘争が決着していない1096年に十字軍が始まったことに注意!!

III-24. ローマ教皇権の絶頂期

教会共同体からの除外を宣する [ 1.破門 ] という手段で皇帝や国王に対して優位に立った教皇権は,12世紀末に選出された [ 2.インノケンティウス3世 ] のときに絶頂期を迎えた。彼は,イングランド王 [ 3.ジョン ] を[ 1 ]して屈服させ,フランス王・神聖ローマ皇帝に対しても干渉し,「教皇権は太陽であり,皇帝権は月である」と主張した。また彼は,南フランスのカタリ派系の異端に対して [ 4.アルビジョワ ] 十字軍を行い,第 [ 5.] 回十字軍を提唱した。さらに,1215年に開催した第4回ラテラノ公会議において,ユダヤ人への差別的扱いを決めた。
check_icon6カタリ派は,ゾロアスター教をもとにキリスト教と仏教の要素を加えて3世紀にできた [ 6.マニ ] 教の影響を受けた異端。南フランスでアルビジョワ派と呼ばれた。第4回十字軍はインノケンティウス3世の意に反し, [ 7.コンスタンティノープル ] を占領した。

III-25. 西ヨーロッパの修道院

西ヨーロッパの修道院は,6世紀に [ 1.ベネディクトゥス ] がイタリアの [ 2.モンテ=カシノ(モンテ=カッシーノ) ] に開いた修道院に始まる。「 [ 3.祈り,働け ] 」をモットーとする[ 1 ]派の戒律は,労働を奴隷の仕事と考えていた古代の労働観を大きく変えた。11世紀に [ 4.クリュニー ] 修道院が始めた教会刷新運動は,叙任権闘争を闘った教皇 [ 5.グレゴリウス7世 ] の改革へと発展した。12~13世紀の西ヨーロッパは大開墾時代であったが, [ 6.シトー ] 派修道院がその先頭に立った。13世紀には,清貧を重んじて財産所有を否定する [ 7.托鉢 ] 修道会として,ドミニコ会や [ 8.フランチェスコ ] 会が創設された。

III-26. ローマ教皇権の衰退(1)

十字軍が失敗に終わると教皇権が傾き始め,各国の王権が伸張すると教皇権はさらに衰えた。13世紀末に教皇となった [ 1.ボニファティウス8世 ] [ 2.聖職者課税 ] 問題をめぐって,フランス王 [ 3.フィリップ4世 ] と争い, [ 4.1303 ] 年には[ 3 ]に一時とらえられて屈服した( [ 5.アナーニ ] 事件)。[ 3 ]はその後,教皇庁を南フランスの [ 6.アヴィニョン ] に移転させ,教皇を監視下においた。これを「 [ 7.教皇のバビロン捕囚 ] 」(1309-77年)という。その後,教皇庁がローマに戻ると,[ 6 ]に対立教皇が選出され,2人の教皇が相争った。これを [ 8.教会大分裂 ] (大シスマ)と呼ぶ。

III-27. ローマ教皇権の衰退(2)

14世紀後半に起きた [ 1.教会大分裂 ] によって教皇と教会の権威は失墜した。これに対して,教会の腐敗や堕落を批判し,改革しようとする動きもおこった。イギリスの [ 2.ウィクリフ ] は,信仰のよりどころを [ 3.聖書 ] にのみ求め,[ 3 ]を英訳した。 [ 4.ベーメン ] (ボヘミア)の [ 5.フス ] は[ 2 ]の説に共鳴し,教会の世俗化を批判した。神聖ローマ皇帝の提唱で [ 6.1414 ] 年から開かれた [ 7.コンスタンツ ] 公会議は,[ 2 ]と[ 5 ]を異端とし,[ 5 ]を火刑に処した。また,この公会議で,新教皇が選出されて教会が再統一されて,[ 1 ]は終わった。ベーメンでは,[ 5 ]の火刑後に彼の教説を信じる[ 5 ]派が蜂起し,[ 5 ]戦争が勃発した。
check_icon6教科書では,「[ 7 ]公会議で[ 2 ]と[ 5 ]が異端とされ,[ 5 ]が火刑に処された」というように書いており,上の記述もそのようにしましたが,実は[ 2 ]も火刑に処されています。ただ,[ 2 ]は1384年に死んでいますので,「[ 2 ]も火刑に処された」と書くと,「何それ?」という疑問が出るのを恐れてでしょうが,教科書ではこのことには触れていません。中世の処刑は,命を奪うことが目的ではなく,その存在自体を消し去ることが目的ですから,[ 2 ]も墓が暴かれ,火刑に処されて灰がテムズ川に流されています。

III-28. 封建社会の安定と成長

11世紀ころに農業生産力が増大し,封建社会は300年ほど続く安定と成長の時代に入った。それをもたらした技術的革新には,水車の改良,鉄製農具の普及,牛や馬に引かせる [ 1.重量有輪犂 ] ,そして耕地を春耕地・秋耕地・休耕地に3分して3年周期で利用する [ 2.三圃制 ] があった。耕地は細長い地条にわかれており,農民に貸与される保有地は,各耕地に分散してあった。だが,耕地を保有者ごとに垣などで仕切ると共同作業が行いにくいので,耕地の仕切りはなかった。これを [ 3.開放耕地制 ] という。耕地を牛馬に引かせて[ 1 ]で耕す農作業は共同で行われ,農民の結びつきを強めた。
check_icon6封建社会が安定してくると,民衆の聖地巡礼熱が高まった。イェルサレム,ローマ,それとイベリア半島西北部の [ 4.サンチャゴ=デ=コンポステラ ] が三大巡礼地として人気があった。

III-29. 西ヨーロッパの膨張

11~13世紀における農業生産力の増大を背景に,西ヨーロッパは内外に拡大し始めた。 [ 1.シトー ] 派修道会による開墾運動, [ 2.オランダ ] の干拓, [ 3.エルベ ] 川以東のスラヴ人居住地などへドイツ人が植民する [ 4.東方植民 ] ,イベリア半島における対イスラーム戦である [ 5.国土回復運動 ] (レコンキスタ),そして聖地を回復する聖戦である [ 6.十字軍 ] が行われた。
check_icon6東方植民では,十字軍の際に結成された宗教騎士団である [ 7.ドイツ騎士団 ] が活躍し,[ 7 ]領はのちにプロイセンへと発展する。

III-30. 十字軍(1)

十字軍のきっかけは,トルコ系イスラーム王朝である [ 1.セルジューク ] 朝の進出にあった。聖地 [ 2.イェルサレム ] を支配下に置いた[ 1 ]朝は小アジアに侵入してビザンツ帝国を脅かした。圧迫を受けたビザンツ皇帝がローマ教皇に救援を要請したことに対して,教皇 [ 3.ウルバヌス2世 ] [ 4.1095 ] 年に [ 5.クレルモン ] 公会議を開催して,聖地[ 2 ]を回復する聖戦を起こすことを呼びかけた。翌1096年に第1回十字軍が出発し,その後,約 [ 6.200 ] 年にわたり十字軍が行われた。
check_icon67世紀の正統カリフ時代に聖地イェルサレムがイスラーム支配下に置かれたのち,イェルサレムはイスラーム支配下に置かれ続けていた。