スカンディナビア半島やユトランド半島を原住地とするゲルマン人の一派(北ゲルマン人)を人という。彼らは8世紀後半から活動を開始して,商業だけでなく海賊・略奪行為を行ったため,として恐れられた。[ 1 ]人は各地に進出して国を建てたほか,アイスランド・グリーンランド,さらには北アメリカにまで到達したものもいた。
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III-12. ノルマン人(2)
に率いられたはスラヴ人地域に進出し,国を建設し,これがロシアの起源となった。ついで,[ 3 ]公が南下して,ドニエプル川流域に公国を建設したが,のちにスラヴ化した。に率いられた一派は,北フランスに上陸して911年に公国を建設した。さらに,ここから分かれた一派が12世紀前半に南イタリア(ナポリ)とシチリアに侵入し,王国を建てた。
ナポリ王国とシチリア王国をあわせて両シチリア王国という。
III-13. ノルマン人(3)
イギリスの大ブリテン島にもノルマン(デーン)人が侵入した。9世紀末にアングロ=サクソン系の大王が一時これを撃退したが,1016年にノルマン(デーン)人のに征服され,デーン朝が成立した。その後,アングロ=サクソンが復活したが,年にノルマンディー公が侵入しての戦いでアングロ=サクソン軍を破り(ノルマン=コンクェスト),[ 4 ]1世として,朝を建てた。
クヌート(カヌート)はデンマーク・ノルウェーも支配していた。
III-14. 封建社会の成立
西ヨーロッパは,古代末期から様々な民族・勢力の侵入があいつぎ,長い混乱期が続いた。この結果,商業と都市は衰え,社会はを基本とする農業経済に移行した。また,度重なる外敵の侵入から我が身を守るために,弱者が強者に保護を求めた結果,(封建的主従関係)が成立した。封建社会は,[ 2 ](封建的主従関係)と,封建的主従関係で結ばれた有力者たちが持つの二つからなるもので,10~11世紀に成立した。
III-15. 西ヨーロッパ封建制の特色
主君が家臣にを与え,家臣は主君にを誓い,軍事的奉仕の義務を負う関係を,という。西ヨーロッパの[ 3 ]は,個人間の関係である。主君が契約に反した場合,家臣は服従を拒否する権利があったし,契約に反しない限り複数の主君を持つこともできた。[ 3 ]の起源は,ローマ末期に行われたと,ゲルマンのにある。[ 5 ]は自分の土地を有力者に献上したのち,有力者から恩貸地として貸与してもらう制度。[ 6 ]は,自由民の戦士が有力者に保護してもらう代わりに忠誠を尽くすという制度であった。
周の封建制は,血縁に基づく氏族制的関係である。
III-16. 荘園(1)
封建制度で結ばれた主君も家臣も領地を持ち,それぞれとして農民を支配していた。[ 1 ]の所有地をという。[ 2 ]は,[ 1 ]が直接経営する,農民に貸与されている,および共同利用地からなっていた。農民は,移動の自由のないと呼ばれる不自由民で,[ 3 ]を耕作するや[ 4 ]での収穫物の一部をおさめるの義務があった。さらに,結婚税・死亡税が課せられ,教会にを払った。
III-17. 荘園(2)
荘園を所有していた領主は,国王の役人が荘園に入ることや課税することを拒むを持っていた。領主に支配されていた不自由身分であるは,ローマ帝政末期に登場した,移動の自由のない小作人()や没落した自由農民の子孫で,長い混乱期に自由を失って,領主に保護を求めた人々である。[ 2 ]は,家族・住居・農具などの所有は認められていたが,移転の自由はなかった。さらに,領主はによって[ 2 ]を裁くことができ,[ 2 ]を人格的に支配していた。初期の荘園における領主の収入の大部分は[ 2 ]にを耕作させるによるもので,自給自足的な現物経済が支配的であった。
III-18. 五本山
ローマ帝国末期にキリスト教会では,と呼ばれる重要な5つの教会が存在した。ローマ,ビザンツ帝国の首都の,シリアの,パレスチナの,エジプトのの5つの教会であるが,ローマと[ 2 ]以外の教会は7世紀に時代のイスラームに支配された。
III-19. 首位権
ローマ帝国末期に成立した五本山のうち有力だったのは,ローマ教会とコンスタンティノープル教会の2つであった。イエスにより使徒の筆頭者とされたと,イエスの死を人間の根源的な罪をあがなった贖罪であると説いたの二人が,ネロ帝の迫害によりローマで殉教したことをもって,ローマ教会は他の教会をしのぐ最高位にあるとする首位権を主張した。ローマ教会は,ゲルマン人の布教を行ったことでも知られる6世紀末に選出されたの時からという称号を用い始めた。
III-20. 聖像崇拝論争
偶像崇拝を厳禁するイスラームに対抗して,年にビザンツ皇帝が発布したにより,ローマ教会とコンスタンティノープル教会の対立と分裂が深まった。ゲルマン人への布教に聖像()を用いていたローマ教会は,聖像は偶像にはあたらないと主張し,聖像禁止令に反発した。この対立は,東西教会の分裂につながっていくこととなった。
聖像禁止令についてはその後も論争が続いたが,聖像禁止令はビザンツ帝国において843年に解除された。