カテゴリー別アーカイブ: 3.中世ヨーロッパ

III-1. 大移動前のゲルマン人

[ 1.バルト ] 海沿岸を現住地とする [ 2.インド=ヨーロッパ ] 語族のゲルマン人は,アルプス以北のヨーロッパにいた [ 3.ケルト ] 人を圧迫しながら勢力を拡大し,紀元前後にローマ帝国の国境までいたった。この当時の状況は,カエサルの『 [ 4.ガリア戦記 ] 』やタキトゥスの『 [ 5.ゲルマニア ] 』が明らかにしている。当時のゲルマン社会は,一人の王または複数の首長がいて,貴族・平民・奴隷の身分差がすでにあった。成年男性自由人から構成される [ 6.民会 ] が最高の議決機関であった。ゲルマン人は本来は牧畜を主としていたが,農耕を行うようになって人口が増加すると,耕地が不足するようになった。耕地不足は,大移動の内的原因である。

III-2. ゲルマン人の大移動(1)

アジア系遊牧民の [ 1.フン ] 人が西進し,黒海の北にいたゲルマン人の一派である [ 2.東ゴート ] 人を征服した。さらに,その西にいた [ 3.西ゴート ] 人を攻撃したため,[ 3 ]人は375年に移動を開始し,翌376年にはローマ帝国との国境であった [ 4.ドナウ ] 川を渡った。これをきっかけに他のゲルマン諸部族も移動を開始して,ゲルマン人の大移動が始まった。

III-3. ゲルマン人の大移動(2)

375年に移動を開始した [ 1.西ゴート ] 人は,翌376年にローマ帝国との国境であった [ 2.ドナウ ] 川を越えたのち,ギリシア・イタリア半島を経由し,ローマを略奪したのち,最終的に [ 3.イベリア ] 半島に建国した。 [ 4.ヴァンダル ] 人は,イベリア半島を経て最終的に北アフリカに建国し,シチリアやサルデーニャに進攻し,ローマも略奪した。ブルゴーニュという地名の由来となった [ 5.ブルグンド ] 人はガリア東南部に, [ 6.フランク ] 人はガリア北部にそれぞれ建国した。

III-4. ゲルマン人の大移動(3)

イタリア半島の支配者は,めまぐるしく代わった。 [ 1.476 ] 年に西ローマ帝国を滅ぼした [ 2.オドアケル ] がイタリアを一時支配したが, [ 3.テオドリック ] に率いられた [ 4.東ゴート ] 人がこれを倒して5世紀末に建国した。その後[ 4 ]王国は,6世紀半ばにビザンツ皇帝 [ 5.ユスティニアヌス ] に滅ぼされた。だが,ビザンツ帝国の支配も長続きせず,6世紀後半に北イタリアに [ 6.ランゴバルド(ロンバルド) ] 王国が建てられた。[ 6 ]王国の建国をもって,ゲルマン人の大移動は終息した。

III-5. ゲルマン諸国家の滅亡

北アフリカに建国された [ 1.ヴァンダル ] 王国と,イタリア半島に建国された [ 2.東ゴート ] 王国は,6世紀半ばにビザンツ皇帝 [ 3.ユスティニアヌス ] によって滅ぼされた。ガリア東南部に建国された [ 4.ブルグンド ] 王国と,北イタリアに建国された [ 5.ランゴバルド(ロンバルド) ] 王国は,フランク王国によって滅ぼされた。イベリア半島に建国された [ 6.西ゴート ] 王国は,711年にイスラームの [ 7.ウマイヤ ] 朝によって滅ぼされた。イギリスの大ブリテン島にわたった [ 8.アングロ=サクソン ] 人は [ 9.七王国 ] (ヘプターキー)を建てたが,9世紀前半にエグバートが統一した。

III-6. フン人

ゲルマン人の大移動のきっかけをつくった [ 1.フン ] 人は,現在のハンガリーに大帝国を築き, [ 2.アッティラ ] 王のときに強大化した。だが,451年の [ 3.カタラウヌム ] の戦いで西ローマ・ゲルマンの連合軍に敗れたのち,[ 2 ]はローマを略奪したが,その帰途[ 2 ]が急死してまもなく衰退した。
check_icon6フン人は,中国史で登場する匈奴など,さまざまな民族からなっていたと考えられている。

III-7. フランク王国の発展

481年にフランク人は, [ 1.メロヴィング ] 家の [ 2.クローヴィス ] によって統一された。[ 2 ]は,正統派の [ 3.アタナシウス ] 派に改宗して,ローマ人貴族層の支持を取り付けた。だが8世紀になると,分割相続などが原因で[ 1 ]家は衰え,行政・財政面の長官である [ 4.宮宰 ] 職を世襲化する [ 5.カロリング ] 家に実権が移っていった。732年に [ 6.トゥール・ポワティエ間 ] の戦いで,[ 4 ]の [ 7.カール=マルテル ] がフランク領内に侵入してきたイスラームの [ 8.ウマイヤ ] 朝軍を撃退すると,その子 [ 9.ピピン ] [ 10.751 ] 年にローマ教皇の支持を得て[ 1 ]朝を廃して[ 5 ]朝を建てた。
check_icon6カロリング朝ができた751年に,中央アジアでは, [ 11.タラス河畔 ] の戦いで唐軍がイスラームの [ 12.アッバース ] 朝軍に敗れた。

III-8. フランク王国とローマ教会の提携

ビザンツ皇帝 [ 1.レオン(レオ)3世 ] [ 2.726 ] 年に発布した [ 3.聖像禁止令 ] に反発したローマ教会は,新たな保護者を求めてフランクの [ 4.カロリング ] 家に接近して,751年におきた [ 5.ピピン ] のクーデタを承認した。その返礼に[ 5 ]は, [ 6.ランゴバルド(ロンバルド) ] 王国を攻め, [ 7.ラヴェンナ ] 地方を教皇に寄進した(「[ 5 ]の寄進」)。これが教皇領の始まりとなった。フランク王国とローマ教会の関係が最も深まったのは, [ 8.800 ] 年に教皇 [ 9.レオ3世 ] [ 10.カール ] にローマ皇帝の冠を授けた時である。

III-9. カール大帝

カールは北イタリアにあった [ 1.ランゴバルド(ロンバルド) ] 王国を滅ぼし,さらにゲルマン人の一派であるザクセン人を服従させた。また,東では遊牧民の [ 2.アヴァール ] 人,南ではイベリア半島の [ 3.後ウマイヤ ] 朝を攻撃して後退させ,西ヨーロッパの統一に成功した。彼は,地方の有力者を [ 4.] に任命し, [ 5.巡察使 ] を派遣して監督させて集権的に支配した。ここにおいてローマ教会は,カールをビザンツ帝国に匹敵する政治的保護者とみなし,ローマ皇帝の冠を [ 6.800 ] 年に与えた。カールの戴冠によって,西ヨーロッパ世界が誕生し,キリスト教世界は教皇を首長とするローマ=カトリック教会と,ビザンツ皇帝を首長とするギリシア正教会とに分裂していくこととなった。

III-10. フランク王国の分裂

カール大帝の死後,843年の [ 1.ヴェルダン ] 条約,870年の [ 2.メルセン ] 条約により帝国は,東フランク・西フランク・イタリアの3つに分裂した。東フランク(ドイツ)は,10世紀初めにカロリング家が断絶して,諸侯の選挙により王が選ばれるようになった。その後, [ 3.ザクセン ] 朝の [ 4.オットー1世 ] [ 5.962 ] 年に戴冠されて,神聖ローマ帝国が始まる。西フランク(フランス)でも10世紀末にカロリング家が断絶し, [ 6.987 ] 年に [ 7.ユーグ=カペー ] がカペー朝を開いたが,王権はきわめて弱かった。イタリアは,カロリング家が断絶したのち,神聖ローマ皇帝の介入やイスラーム勢力の侵入などがあり,分裂状態が続いた。