1494年にフランス王シャルル8世がイタリアに侵入すると,神聖ローマ皇帝・スペイン王などがこれに対抗して,戦争が勃発した。この戦争は,イギリスなども巻き込み展開されたが,1559年のカトー=カンブレジ条約によってフランスがイタリア進出を断念することで終結した。[ 1 ]戦争以降,戦争は長期化・大規模化したため,各国は行政組織を整備し,国内を一元的に支配する体制を強めた。この過程で,中世の封建的主従関係の下で人的な結合からなる封建国家とは異なる,明確な国境で囲まれた領域をもち,君主が国を代表する体制をつくるようになった。このような国家を,とよび,近代国家の原型となった。
イタリア戦争は,イタリアの荒廃を招き,イタリア=ルネサンスが衰退した。また,フランス王フランソワ1世と戦うために皇帝カール5世がドイツを不在にしたことは,ルター派の伸張にもつながった。
カテゴリー別アーカイブ: 主権国家体制と絶対王政
IV-38. 絶対王政
主権国家の形成期に,スペイン・フランス・イギリスで形成された強力な国王による統治体制をと呼ぶ。[ 1 ]は,制度と軍を権力の基盤とした。だが,ギルドや貴族といった中世以来の職能団体や身分制度が残っており,国王はこれらの団体を認めた上で統制した。免税特権をもつ聖職者や貴族の勢力に対抗するため,国王は大商人などに経済上の独占権を与えるなどして,協力関係を築いた。[ 1 ]では,財源を確保するために,国家が積極的に経済活動に関与する政策がとられた。また,[ 1 ]を正当化するイデオロギーとして,王権は神から授かったもので人民に拘束されないとするが唱えられた。
以前は,絶対王政は国王が専制的な権力をふるったという立場をとっていたが,現在では国王の権力は制限的なものであったと考えられている。
IV-39. 重商主義
絶対王政期に,国家が経済に介入して国を富ませようとする経済政策がである。金や銀そのものを富と考えてそれを取り込もうとする重金主義,貿易黒字の拡大をめざす貿易差額主義,国内の輸出産業の保護を目指す産業保護主義などの形で展開された。重商主義を批判した経済思想が『経済表』を著したのである。
IV-40. スペインの繁栄(1)
年に家のがスペイン王について,スペイン=[ 2 ]朝が始まった。[ 3 ]は1519年にとして神聖ローマ皇帝にも選出された。[ 3 ]の治世の大半は,イタリア戦争におけるとの戦いや,オスマン帝国との戦いに費やされ,ラテンアメリカから流入する銀は戦争と宮廷の維持に費やされ,財政が破綻して退位した。1556年に即位した[ 3 ]の息子のもとでスペインは全盛期を迎えた。
1516年にはトマス=モアの『ユートピア』も出版された。ゴロで「イチゴ色スペイン=ハプスブルク朝,ユートピア」と覚えておこう。
IV-41. スペインの繁栄(2)
スペインの全盛期は1556年に即位したのもとで迎えられた。年のの海戦でオスマン海軍を破った[ 1 ]は,1580年に王位を兼任し,その海外植民地も手に入れ,「」を実現した。だが,オランダの独立運動は大きな打撃となり,またラテンアメリカから銀をもたらすスペイン船を襲うイギリスのらのの活動も打撃を与えた。オランダの独立を支援するイギリスを討つために派遣されたが,1588年にイギリスに敗れたのちにスペインの世界帝国は急速に衰退した。
IV-42. オランダ独立戦争(1)
ネーデルラントは,現在のオランダにあたる北部州と,現在のベルギーにあたる南部州からなる。商業の発達したネーデルラントにはカルヴァン派の新教徒が多かったが,スペイン王がこの地にもカトリックを強制し,自治権を奪おうとしたため,1568年にを指導者としてオランダ独立戦争が始まった。カトリック教徒が比較的多かった南部[ 2 ]州はスペインの支配下にとどまったが,北部[ 1 ]州は1579年に同盟を結んで抵抗を続け,年にとして独立を宣言した。
北部7州で最も有力な州がホラント州であったことから,「オランダ」の名称ができた。
IV-43. オランダ独立戦争(2)
年にとして独立を宣言したオランダを支援するイギリスを攻撃するため,スペインは年にを派遣したが,イギリスに敗れて覇権を失った。1602年に会社を設立して国力を強めたオランダは,1609年の休戦条約で事実上独立をかちとり,1648年に結ばれた三十年戦争の講和条約条約で国際的に独立が認められた。
IV-44. オランダの繁栄(1)
16世紀前半に国際金融の中心として繁栄していたベルギー北部にあるがオランダ独立戦争中の1585年にスペイン軍によって占領されると,多くの商工業者がオランダのに亡命し,17世紀前半に[ 2 ]は国際金融の中心として繁栄した。オランダは海における貿易で富を蓄え,1602年には会社を設立してアジアに進出した。ジャワの(現在のジャカルタ)を根拠地にポルトガル商人を排除し,さらに1623年の事件を契機に諸島からイギリス勢力を駆逐して香辛料貿易を独占した。また,アフリカ南端に植民地を建設して,アジアへの中継地とした。
IV-45. オランダの繁栄(2)
オランダは,日本の鎖国体制が完成したのちも長崎の出島を通じての対日貿易を許され,さらに中国との貿易においても優位に立った。オランダは,一時台湾も占領したが,1661年にによってやぶられて台湾を失った。また,1621年に会社を設立して,ヨーロッパ・西アフリカ・アメリカを結ぶに乗り出した。オランダは,北アメリカ東岸にニューネーデルラント植民地を創設して,を建設した。こうして,17世紀前半にオランダは繁栄したが,17世紀後半におきた戦争に敗れて海上覇権をイギリスに奪われた。
17世紀は寒冷化が進み,三十年戦争・イギリス革命・フロンドの乱など多くの戦争や内乱が勃発し,「17世紀の危機」と呼ばれる。しかし,オランダは,香料貿易やバルト海貿易で優位に立ったことでこの時期としては,例外的な繁栄を見せた。