1931年,スペイン革命が勃発し,ブルボン王政が倒れ,共和政が樹立された。1936年には,アサーニャを首班とする内閣が成立した。これに対して,将軍がスペイン領モロッコで反乱を起こし,内戦が全土に広まった。・イタリアは軍隊を送って[ 2 ]側を支援した。[ 1 ]側には,ソ連の援助や,各国の知識人や社会主義者によるの支援があったが,イギリスとがをとり,また[ 1 ]内部の対立もあったため,39年にマドリードが陥落して[ 2 ]側の勝利に終わった。
(1)[ 4 ]には,スペイン内戦を舞台とする『誰がために鐘は鳴る』を著したアメリカの作家や,スペイン内戦の体験をもとに『カタロニア賛歌』を著したイギリスの作家などが参加した。(2)内戦中にドイツ空軍がを無差別攻撃したことに抗議して,スペインの立体派(キュビズム)の画家ピカソが「[ 9 ]」を描いた。
カテゴリー別アーカイブ: 7.戦間期と第二次世界大戦
VII-42. 日独伊による三国枢軸
1930年代にドイツとイタリアは,第一次世界大戦後のヨーロッパにおける国際秩序である体制を破壊していった。一方,1932年の日本による建設は東アジアにおける体制を突き崩すものであった。国際的に孤立した日独伊は急速に接近した。イタリアの侵略とスペイン内戦を通じて,ドイツとイタリアが36年にを結んだ。同年,日本とドイツの間で共産主義に対抗する日独が結ばれ,翌37年にはイタリアも参加して日独伊[ 6 ]が成立し,三国枢軸が形成された。
VII-43. ミュンヘン会談
ドイツのヒトラーは,1938年3月にを併合し,9月には領内のドイツ人居住地区地方の割譲を要求した。[ 2 ]はこれを拒否したが,イギリス首相はフランス首相とともに,ヒトラー・ムッソリーニとを行い,当事国[ 2 ]の参加を認めないまま,さらなる領土要求は行わないという約束で[ 3 ]地方のドイツへの割譲を認めた。翌39年3月,ヒトラーは[ 2 ]解体を行い,西半分のベーメン・メーレンを保護領に,東半分のスロヴァキアを保護国としたため,[ 6 ]による宥和政策は破綻した。そのためイギリスとフランスは軍備を拡大するとともに,ソ連と同盟を結ぶ交渉に入ったが,宥和政策をとってきたイギリスとフランスにソ連のスターリンが不信感を抱いていたため,成立しなかった。
ヒトラーは,[ 3 ]地方の割譲要求に際し,「民族自決」を掲げた。
VII-44. 第二次世界大戦の開始
1939年3月にを解体したヒトラーは,さらにに対して(現グダニスク,グダンスク)の返還とを通って東プロイセンにいたる陸上交通路を要求した。この情勢下,イギリス・フランスが[ 2 ]の安全保障を約束したので,[ 2 ]はドイツの要求を拒否した。一方,イギリス・フランスに不信感を持っていたソ連のと,英・仏とソ連という二正面作戦は避けたいと考えたヒトラーの利害が一致し,39年8月に電撃的にが結ばれた。ドイツは,9月1日に[ 2 ]に侵攻し,それに対し英・仏が9月3日にドイツに宣戦して第二次世界大戦が始まった。
(1)[ 6 ]の秘密議定書では,独ソ両国による[ 2 ]分割と東ヨーロッパの勢力圏を定めていた。それによると,フィンランド・バルト3国はソ連の勢力範囲とされていた。この秘密議定書に従って,9月半ばにソ連も[ 2 ]に侵攻した。(2)ソ連がドイツのファシズムと手を結んだことは大きな衝撃を与えた。反ファシズム統一戦線であった運動が動揺したほか,満州国とモンゴル国境のノモンハンでソ連と衝突していた日本にも大きな衝撃を与え,時の平沼騏一郎内閣は欧州情勢は「複雑怪奇」という声明を出して総辞職した。
VII-45. 第二次世界大戦-1939年9月から40年春までの状況-
1939年9月1日にドイツ軍の侵攻を受けたは,9月半ば軍の侵入も受けて敗北し,両国間で分割された。[ 2 ]はつづいて,に宣戦し,カレリア地方を奪った。これを受けて,[ 2 ]は国際連盟により侵略国として除名されたが,40年に3国(・ラトヴィア・リトアニア)を併合し,からベッサラビアを割譲させた。一方,イギリス・フランスはドイツに宣戦はしていたが,ドイツを積極的に攻撃することはなかったので,西部戦線は40年春までは平穏であった。
イギリス・フランスが宣戦布告後もドイツを攻撃しなかったことを,「まやかし戦争」などと呼ぶが,この背景にはフランスがドイツとの国境沿いに建設していたマジノ線と呼ばれる強固な要塞線の存在がある。フランスは,これを過信し,対ドイツ戦を楽観視していた。しかし,マジノ線はベルギーとの国境には作られておらず,ドイツ軍はここを突破してフランス軍とフランスに駐留していたイギリス軍を破った。
VII-46. 第二次世界大戦-フランスの降伏-
1940年春,ドイツ軍は中立国であったデンマーク・を占領した上で,5月に中立国であったオランダ・に侵入し,さらにフランスへ侵攻した。40年6月にパリが占領されてフランスは降伏した。ドイツ軍の優勢を見て,イタリアも6月に英仏に宣戦し,南フランスに侵入した。フランスでは,共和政が崩壊し,フランスの北半はドイツ軍に占領され,南半はドイツに協力するに率いられる政府が統治した。しかし,らは降伏を拒否し,ロンドンに亡命政府()をつくり,国民に抵抗運動()を呼びかけた。
ベルギーは第一次世界大戦においてもドイツにより中立を侵犯され,第二次世界大戦においても再び中立を侵犯された。
VII-47. 第二次世界大戦-英の苦境-
ドイツ軍が・ノルウェーを占領すると,イギリス首相は辞任し,1940年5月にが戦時内閣の首相となり,強力に戦争指導を行った。6月にフランスを降伏させたドイツは,イギリス上陸をねらって8月からドイツ空軍がイギリスを空襲したが,イギリス空軍が制空権を死守したため,ヒトラーはイギリス上陸作戦を断念した。日本・ドイツ・イタリアは,大戦前の37年にを結んでいたが,それを発展させて,40年9月にが結ばれた。この同盟で,ドイツはソ連の兵力を東西に分断させることをねらい,日中戦争を戦っていた日本はアメリカを牽制することをねらったが,この同盟により日本とイギリス・アメリカとの関係はさらに悪化した。一方,フランス降伏後,単独でドイツ・イタリアと戦っていたイギリスをアメリカが援助した。アメリカは大戦勃発後に中立法を改正してイギリス・フランスへの武器輸出を認め,さらに41年3月にを制定し,イギリスへ武器・軍需物資を事実上供与した。
[ 6 ]はのちに中国・ソ連にも適用された。
VII-48. 第二次世界大戦-1941年における新展開(1)-
イギリス上陸作戦を断念したヒトラーは東方へ目を転じ,1941年4月に半島に侵攻し,ユーゴスラヴィアとギリシアを制圧した。ドイツの[ 1 ]進出に危機感を強めたソ連は,同年4月東方の安全を確保するためを結んだ。41年6月,ドイツは39年に締結していたを無視して,ソ連を奇襲してが開始された。[ 4 ]の開始を機に,イギリスとソ連は同盟を結んだ。41年8月,アメリカ大統領とイギリス首相が大西洋上で会談し,戦争目的と戦後の平和構想を明らかにするを発表した。
(1)イギリスと同盟を結んだソ連は,43年にアメリカ・イギリスとの協調を深めるためにコミンテルンを解散した。(2)大西洋憲章が発表された41年8月の段階では,アメリカはまだ参戦していないことに注意!!アメリカの参戦のきっかけは,41年12月の日本による真珠湾攻撃である。(3)ユーゴスラヴィアでは,ドイツ軍に対しが指導する闘争が展開された。(4)ドイツは,アウシュヴィッツなどので多数のユダヤ人を殺害するホロコーストを行った。
VII-49. 第二次世界大戦-1941年における新展開(2)-
1937年に始まったの長期化で国力を消耗していた日本は,南方への進出を図り,フランスがドイツに降伏すると,40年9月に北部に進駐した。41年4月にを結んで北方の安全を確保したのち,7月には[ 2 ]南部にも進駐した。この南進政策はイギリス・アメリカ・オランダの利害と衝突した。41年4月から始まった日米交渉では,日独伊三国同盟や日本軍の中国からの撤兵などが話し合われたが,双方の見解の差は大きく交渉は難航した。日本が行った[ 2 ]南部進駐に対して,アメリカは石油の対日輸出停止などの強硬な対抗措置をとった。その後も日米交渉はまとまらず,1941年12月8日に日本軍がハワイのを奇襲するとともに,イギリス領マレーに上陸して,が始まった。三国同盟により,ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦したので,戦争は日独伊を中心とするとアメリカを中心とするの戦いとなった。
(1)太平洋戦争前に対日包囲網を築いたアメリカ・イギリス・中国・オランダを日本では「ABCDライン」と呼んだ。(2)「[ 5 ]」とはアメリカ側の呼称。日本では,日中戦争も合わせて「大東亜戦争」と呼んだ。
VII-50. 大西洋憲章
アメリカ大統領とイギリス首相が1941年8月に発表したは,領土不拡大・民族自決・貿易の自由化と拡大・海洋の自由・平和機構の再建など8カ条からなっていたが,その後ソ連も加わり,翌42年1月には連合国26か国によるへと発展した。
[ 4 ]は[ 3 ]の原則を確認し,単独で休戦や講和をしないことを誓約したもの。この宣言で正式に採用された「連合国」という語は”the United Nations”であるが,これは国際連合の名称である。