フランクリン=ローズヴェルトは,1933年にを承認した。ラテンアメリカ諸国に対しては,それまでの高圧的なにかわり,に努め,34年にはプラット修正を撤廃しての独立を承認した。世界恐慌の進展にともない,勢力下にある諸国・地域を囲い込むが展開されたが,アメリカは南北アメリカ大陸をに組み入れた。また,1898年のアメリカ=スペイン戦争で獲得したについては,34年に10年後の独立を約束した。さらにフランクリン=ローズヴェルトは,1935年におきたイタリアのエチオピア侵略を機に,交戦国への武器・軍需品の輸出と借款を禁じた中立法を制定した。
[ 7 ]の独立については,太平洋戦争中に日本軍が占領したため,独立達成は第二次世界大戦後の1946年である。
カテゴリー別アーカイブ: 7.戦間期と第二次世界大戦
VII-32. イギリスの恐慌対策
1928年に選挙法改正が行われ,21歳以上の男女による最初の普通選挙が29年に実施され,が初めて第一党となり,第2次内閣が成立した。恐慌の影響で失業者が増加し財政が悪化すると,1931年に失業保険の削減を含む緊縮財政をとろうとした。これに[ 2 ]が反対して党首の[ 3 ]を除名したため,[ 3 ]は首相を辞職した。その後,・自由党および[ 2 ]の一部の協力を得て,[ 3 ]はを組織し,あらためて緊縮財政を実施し,を停止した。32年にカナダので([ 7 ]連邦会議)を開き,連邦内の関税を下げ,連邦外の他国には高関税を課す(ポンド=ブロック)を形成した。
VII-33. ブロック経済
フランスも,自国の植民地とベルギー・スイスなどの友好国とともにを形成した。アメリカは,南北アメリカにを形成した。日本は,台湾・朝鮮・満洲に円ブロックを形成して,対抗した。ドイツも,ドイツとオーストリアにマルク=ブロックを形成した。ブロック経済は自由な貿易体制を破壊し,ブロック間の摩擦は第二次世界大戦の重要な要因となった。
VII-34. ファシズムの登場
第一次世界大戦後の戦間期のヨーロッパで,ファシズムと呼ばれる運動が各地に現れた。語源としては,イタリアの率いるにちなむが,反自由主義・反共産主義を掲げ,分裂した社会を統合するためにナショナリズムをあおった。イタリアの[ 2 ]やドイツのナチス()がその典型とされるが,単なる強権的支配ではないことが大きな特徴である。イタリア・ドイツともレジャーやスポーツなどを通じた大衆組織を整備し,ドイツではが労働者でも買うことができるフォルクスワーゲン(「国民車」の意)構想を掲げて,大衆の支持を獲得しようとした。ファシズムは,強力な指導者原理のもとで露骨な暴力を用いたが,その基盤には大衆の動員があったのである。
VII-35. ナチス政権の成立
第一次世界大戦後のドイツ国民は,過大な賠償金支払いなど報復的内容をもつ体制に不満を抱いていた。世界恐慌の進展のなか,アメリカ資本が引き上げられドイツ経済が深刻な状況に陥ると,不満はますます高まった。この不満は,[ 1 ]体制を遵守してきた共和国政権に対する不信へとつながり,[ 1 ]体制と議会制民主主義を批判してきたとナチス()が勢力を伸ばした。1930年以降,軍部と保守派が大統領緊急令にもとづく少数派内閣を組織すると,議会が形骸化し,議会制民主主義は空洞化した。ナチスのもともとの支持基盤は中間層(中産層)にあったが,徐々に労働者にも支持を広げ,32年の選挙でナチスが第一党に躍進した。[ 3 ]も勢力を伸ばしたため,産業界や軍部は[ 3 ]への対抗勢力としてナチスに期待するようになり,33年1月に大統領がナチスの指導者を首相に任命した。
VII-36. 第三帝国の成立
ヒトラー内閣はを利用して共産党を弾圧し,を成立させて政府に立法権を与え,さらにナチス以外の政党や労働組合を解散させて体制を確立した。1934年に大統領が死去すると,ヒトラーは首相と大統領をかねるとなり,第三帝国と称した。反対派やユダヤ人は,(SS)・(SA)や(ゲシュタポ)により迫害され,強制収容所へ送られた。このため,ナチスに反対する人々やユダヤ人が多数亡命し,亡命者の中には『魔の山』を著したノーベル文学賞作家や,相対性理論で知られるノーベル物理学賞受賞者のらがいる。
第三帝国とは,神聖ローマ帝国,1871年成立のドイツ帝国に次ぐものという意味である。
VII-37. ナチスによるヴェルサイユ体制の破壊
ナチスは高速道路()建設などの大規模な土木工事を行って失業者を減らすとともに,1936年から「四カ年計画」にもとづく戦争に向けた経済体制づくりに乗り出した。ナチスはヴェルサイユ条約の内容を次々に破っていった。33年,軍備平等権を主張してから脱退した。35年には住民投票によって地方を回復し,をおこなって徴兵制を復活した。これに対して,フランスとソ連がを結ぶと,ドイツは翌36年にを破棄して,非武装地帯に軍隊を進駐させた。ドイツのヴェルサイユ体制破壊の動きに対し,イギリスとフランスはをとり,強硬な姿勢はとらなかった。
(1)ドイツが[ 2 ]を脱退した同じ1933年に日本も,満州国不承認の決議を不服として[ 2 ]を脱退した。(2)ドイツの[ 4 ]に対して,イギリスはドイツにイギリス海軍力の35%の保有を認めるを結び,ドイツの再軍備を事実上追認した。これは,[ 8 ]の始まりとされる。
VII-38. 宥和政策
ヴェルサイユ体制の破壊をすすめるドイツに対するイギリス・フランスの妥協的な態度をと呼ぶ。その政策の背景としてまず第一に挙げられるのが,国民の戦争に対する恐怖心である。第一次世界大戦終結から20年もたっていない時期であり,国民の戦争を回避してほしいという願いは強かった。1938年にイギリス首相はに出席して,チェコスロヴァキアを犠牲にして戦争を回避したが,イギリス国民は帰国した[ 2 ]を「英雄」として歓迎したのである。第二に,ドイツをソ連に立ち向かわせようという思惑があった。ヒトラーは『わが闘争』という著作のなかで,「ドイツの生存権は東方にある」と断言していたことから,ドイツがソ連と戦って両者が弱体化することは歓迎されることであった。
VII-39. イタリアのエチオピア侵略
恐慌によっていきづまった苦境をイタリアの政権は,対外侵略をもって乗り切ろうとし,1935年にに侵攻した。国際連盟は,イタリアを侵略国と認め,経済制裁を実行したが,石油が除外されるなど内容が不十分で,翌36年にイタリアは[ 2 ]全土を征服し,37年に国際連盟を脱退した。[ 1 ]はドイツの再軍備宣言に対して,一時イギリスとフランスに接近したが,[ 2 ]侵略による国際的孤立と,スペイン内戦における支持などを通じてドイツに接近し,36年にと呼ばれる提携関係を結んだ。
イタリアが[ 2 ]に侵攻したのは二度目である。1895~96年の侵攻では,アドワの戦いで敗北して失敗に終わっていた。
VII-40. 人民戦線戦術
ファシズムの台頭を阻止できなかったは,1935年の大会で,社会民主主義政党を敵視する政策を転換して,ファシズムに反対するすべての勢力が協力する反ファシズム統一戦線()を提唱した。フランスでは,36年に共産党の閣外協力のもと,社会党のを首班とする[ 3 ]内閣が誕生した。この内閣は,週40時間労働制や有給休暇制の導入などを行ったが,経済政策に失敗し,[ 3 ]内部における共産党と急進社会党の対立で崩壊した。1931年にブルボン王政が倒れたスペインでも,36年にアサーニャを大統領とする[ 3 ]内閣が誕生したが,将軍による軍事反乱がおき,スペイン内戦が勃発した。