1919年に制定された憲法は,20歳以上の男女による普通選挙,労働者の団結権だけでなく経営参加権も認めるもので,当時最も民主的といわれた。だが,議会が機能しない場合に大統領が非常の措置をとることができるという非常大権が認められた(大統領緊急令)。この強権は,共和政初期における左右両派の蜂起の鎮圧などには有効に働いたが,29年からのの混乱の中では,大統領命令が多発され,大統領に指名された内閣が続いた。そして,33年1月にが[ 1 ]共和国第2代大統領により首相に指名されると,[ 4 ]は[ 1 ]共和国を崩壊へと導いた。
カテゴリー別アーカイブ: 7.戦間期と第二次世界大戦
VII-22. ヴァイマル共和国(3)
1923年のフランス・両軍によるに対して,ドイツの労働者がストライキなどの「消極的抵抗」で対抗すると,経済が破綻して天文学的と呼ばれる極端なと通貨マルクの暴落がおきた。この混乱に乗じて,ナチス()は武装蜂起による政権獲得を狙ったが失敗した()。23年に首相になったは不動産などを担保に新紙幣を発行してインフレーションを終息させた。
1兆マルクを1レンテンマルクと交換した。
VII-23. ヴァイマル共和国(4)
首相として新紙幣を発行してインフレーションを終息させたは,その後は外相として協調外交に努め,24年に案を成立させ,25年に条約を結び,翌26年には国際連盟への加盟を実現した。25年にはヴァイマル共和国初代大統領の死去を受けて大統領選挙が行われ,大戦中にロシア軍をの戦いで破った国民的英雄が保守派・帝政派に推されて第2代大統領となった。
VII-24. 1920年代におけるイタリアの国内政治(1)
イタリアは戦勝国だったが,大戦後「」のうち・の領有は認められたが,の領有が認められず,ヴェルサイユ体制に強い不満を抱いた。戦後,失業者が増大し,インフレーションが進行する経済混乱のなか1920年に北イタリアの工業都市で労働者による工場占拠やストライキが発生し,南イタリアでも農民が土地を占拠した。この状況下,が結成した党が地主や資本家,都市のの支持を得て勢力を急速に拡大させた。
VII-25. 1920年代におけるイタリアの国内政治(2)
1922年,は党による「」という示威行動を展開した。政府は戒厳令でおさえようとしたが,社会主義勢力を恐れる国王が拒否して[ 1 ]に組閣を命じた。政権を握った[ 1 ]はに権力を集中させて,1926年に[ 2 ]党以外の政党を禁止して体制を確立した。対外的には,24年にユーゴスラヴィアからを奪い,26年にを保護国化した。29年,ローマ教皇庁と条約を結び,の独立を認め,1870年にローマ教皇領をイタリア王国が占領して以来の対立を解消した。
ドイツのナチス政権は世界恐慌の混乱の中で成立したが,イタリアでは世界恐慌の混乱とは無関係にファシズム政権が誕生したことに注意!!
VII-26. 第一次世界大戦後の東欧・バルカン諸国
ポーランドは,のもと独立を達成し,1920年にウクライナに侵入してソヴィエト=ロシアとの戦い(ポーランド=ソヴィエト戦争,ソヴィエト=ポーランド戦争)で領土を拡大した。民主的憲法が制定されたが,政党が分立して民主化が徹底しないなか,26年に[ 1 ]がクーデタを起こして実権を握った。では,1919年にベラ=クンの指導のもと,ロシア革命にならったソヴィエト政権が成立したが農民の反発とルーマニア軍の介入によって崩壊し,その後ホルティの権威主義体制という強権的支配が44年まで続いた。バルカン地域では,南スラブ系民族がセルブ=クロアート=スロヴェーン王国としてまとまり,29年にと改称した。
VII-27. ソ連の社会主義建設
ソ連では,1924年にレーニンが死ぬと後継者争いがおこった。共産党書記長のはロシア一国だけで社会主義を建設できるとするを唱え,世界革命論を唱えるを追放して実権を握った。28年,[ 1 ]は21年から行っていた(新経済政策)にかわって社会主義経済建設をめざすを開始し,重工業化の推進と,(集団農場)や(国営農場)による強制的な農業の集団化を推し進めた。29年から始まった世界恐慌のなかで資本主義国の生産は後退したが,資本主義経済から孤立していたソ連は世界恐慌発生後も順調に工業生産を伸ばし,30年代後半にはアメリカに次ぐ工業国となった。しかしそのかげで,[ 1 ]は集団化で数百万の農民を餓死させ,さらに反対派を大量に処刑したり強制収容所に送るを行って独裁をすすめた。
第一次世界大戦後に国際的に孤立していたドイツは,1922年にソヴィエト政権と条約を結んで国交を樹立した。イギリスは,1924年に労働党内閣のもとでソ連を承認した。アメリカは,1933年に大統領のもとでソ連を承認した。
VII-28. 世界恐慌の発生
1929年10月24日(「」),ニューヨーク株式市場()で株価が大暴落して,アメリカは大恐慌に襲われた。恐慌の原因は次のようなことが挙げられる。(1)ヨーロッパが復興してくるとヨーロッパ向けの農産物価格が低下して農業恐慌が進行した。(2)工業製品が大量に生産される反面,労働者の賃金が低く抑えられており,需要と供給のバランスが崩壊した。(3)アメリカ自身が保護貿易主義をとっており,輸出が振るわなかった。このような構造的原因から起きた恐慌は長期にわたった。アメリカは海外に投下していた資本を引き上げたため,アメリカ発の恐慌は世界恐慌となった。とくに,アメリカ資本の援助によって経済復興を遂げていたドイツに深刻な影響が出た。資本主義経済から切り離されていたソ連のみが恐慌の影響を免れた。
VII-29. アメリカの恐慌対策
アメリカでは,の大統領は,恐慌対策として1931年に戦債と賠償支払いの1年間停止([ 2 ]=モラトリアム)を宣言したが効果はなかった。32年の大統領選挙では,従来からの経済の自由放任を主張する[ 2 ]を破って,のが大統領に当選し,(新規まき直し)と呼ばれる大規模で大胆な対策を実行した。
[ 4 ]はアメリカ史上唯一,4選された大統領である。ワシントン大統領が3選を固辞したことをもって2期までということが慣例であった。だが,第二次世界大戦が始まっていたことを理由に,[ 4 ]は40年と44年の選挙に立候補した。第二次世界大戦後に憲法が修正されて2期までと定められたことから,民主的な政治が行われる限り,4選の記録を抜くことは不可能であろう。
VII-30. アメリカの恐慌対策-ニューディール-
の大統領は金融不安解消のためにを停止するとともに,以下のようなニューディール政策を行った。(AAA)によって農業生産を調整し,農産物の価格を引き上げて農民の生活を安定させた。(NIRA)で,企業の競争を制限して生産と価格を調整し,労働者には団結権と団体交渉権を認め最低賃金を確保させ,購買力の向上を図ろうとした。だが,最高裁で違憲判決が出たため,35年にで労働者の団結権と団体交渉権を認めた。また,(TVA)のような公共事業をおこして失業者を減らそうとした。それまでの自由放任の経済にかわるニューディール政策は,国家が積極的に経済に介入して景気回復を図ろうとするもので,今日までつづくのさきがけである。[ 8 ]はイギリスの経済学者ケインズらによって理論化された。
[ 6 ]が制定されたのを機に,アメリカ労働総同盟(AFL)内部の未熟練労働者が38年に分離して(CIO)を組織し,[ 9 ]はニューディール政策を支持する勢力となった。その後,55年にAFLと合同してAFL-CIOとなった。