第一次世界大戦は世界経済に大きな変動をもたらした。大戦前のアメリカは世界最大の工業国ではあったが,世界有数の債務国でもあった。だが大戦中,アメリカは連合国(協商国)へ物資や(借款)を提供して大きな利益をあげ,戦後には債務国からに転じ,ニューヨークがロンドンに並ぶ国際金融市場の中心となった。巨大な経済力を背景にアメリカでは新たな生活様式が生みだされた。のベルトコンベア方式による車の大量生産により,車は大衆にも手の届くものとなった。また,冷蔵庫・洗濯機などの家電製品の普及により大量生産・大量消費社会が形成された。ラジオ・映画・スポーツなどの発展により,大衆文化も誕生した。
第一次世界大戦後のアメリカの繁栄を「パクス=アメリカーナ」の始まりととらえる考え方もある。だが,「パクス=アメリカーナ」の起点について,第二次世界大戦終結ととらえる論者もいるし,1991年のソ連崩壊とする論者もいて見解は統一されていない。
カテゴリー別アーカイブ: 7.戦間期と第二次世界大戦
VII-12. 1920年代におけるアメリカの国内政治(1)
アメリカでは,第一次世界大戦中に女性が軍需生産に協力したことを背景として,1920年に女性参政権が認められた。21年から,・クーリッジ・と3代にわたって,経済界の利益を重視する政権が続き,自由放任政策と高関税政策がとられた。この高関税政策はヨーロッパの経済復興の妨げとなった。[ 3 ]政権は対外的にはをとり,には加盟しなかったが,賠償問題については1924年の案,1929年の案を成立させてヨーロッパの問題に関わった。
VII-13. 1920年代におけるアメリカの国内政治(2)
この当時のアメリカ社会の中心はと呼ばれる白人で,伝統的な白人社会への復帰を求める声が強く,酒の製造・販売・運搬を禁止するが成立し,1924年には日本人を含むアジア系移民を事実上禁止するが制定された。また,人種差別主義の秘密結社の活動が活発化し,イタリア系移民のアナキストに対する冤罪(えんざい)とされる事件も起こった。
(1)WASPとは,White, Anglo-Saxon, Protestantの頭文字をとったもので,イギリス系のプロテスタントの白人をさす。(2)[ 2 ]は,ギャングによる密造・密売を招き,1933年に廃止された。
VII-14. 1920年代におけるイギリスの国内政治(1)
第一次世界大戦における総力戦に協力した女性が参政権を強く求めるようになった結果,イギリスでは,1918年の選挙法改正で初めて女性参政権が認められた。しかし,この選挙法改正は,男性21歳以上,女性30歳以上と不平等なものであった。28年の選挙法改正で,21歳以上の男女に改められ,男女平等の普通選挙が確立した。[ 1 ]選挙法改正はの躍進をもたらし,23年の選挙で保守党に次ぐ第二党となり,翌24年にの協力を得て,第1次内閣が成立した。初めての[ 3 ]内閣はソ連を承認したが,選挙に敗れて1年もたず短命に終わった。1929年の選挙で労働党は第一党となり,第2次[ 5 ]内閣が誕生した。イギリスの政治状況は,自由党が衰退していくなか,保守党と労働党の二大政党時代へと変化していった。
[ 1 ]選挙法改正は,挙国一致内閣のもとで行われた。
VII-15. 1920年代におけるイギリスの国内政治(2)
第一次世界大戦中に自治領は本国に協力して参戦したが,1916年のアイルランドにおけるのような本国からの自立をめざす動きも存在した。第一次世界大戦後のイギリスは,インドやエジプトの民族運動を抑える一方で,北部のアルスター地方を除くアイルランドに自治権を認め,1922年にが成立した。自治領が本国議会の束縛を脱しようとする状況を受けて,26年のイギリス帝国議会において自治領に本国と対等の関係を認め,「イギリス国王に対する共通の忠誠」を基盤とするが組織された。31年,でこの体制が法制化された。しかし,アイルランドの独立派は,37年に国王への忠誠宣言を廃止して独自憲法を定め,を国名として事実上[ 3 ]を脱退した。その後,49年には正式に[ 3 ]を脱退してアイルランドを名乗った。
(1)1905年に結成されたアイルランドの民族主義政党は[ 1 ]に関わったのちも支持を広げ,1918年の選挙で圧勝し,独立を宣言した。これを認めないイギリスとの武力闘争を経て,[ 2 ]が成立した。(2)「アイルランド」は英語,「エール」はアイルランド語であるが,どちらも公称として用いられている。
VII-16. 1920年代におけるフランスの国内政治
フランスは,第一次世界大戦で国土が戦場となって荒廃した上,帝政ロシアに対する莫大な債権をロシア革命で失ったこともあり,ドイツに過大な賠償を要求した。ポワンカレ右派内閣は賠償支払い不履行を理由に23年にとともにを行ったが失敗し,翌24年に左派連合内閣が成立した。外相はドイツとの協調を図り,25年にルールから撤兵し,ドイツ西部国境の現状維持やラインラント非武装などを確認した条約を結んだ。[ 3 ]外相は28年にアメリカの国務長官と協力して([ 5 ]・[ 3 ]条約,[ 5 ]・[ 3 ]協定)を結んだ。
VII-17. 賠償問題(1)-ルール占領-
ドイツが払うべき賠償金はヴェルサイユ条約では金額が未定だったが,1921年に1320億金マルクという莫大な額に決定された。支払い能力のないドイツが賠償支払いを遅延したということを口実に,フランス・両軍は23年に工業地帯を占領した。ドイツの労働者はストライキなどの「消極的抵抗」で対抗したため,フランス・[ 1 ]両国は成果を得られず,24年に新賠償方式案が成立すると,翌25年にフランス・[ 1 ]両軍は撤退した。
自由放任主義を批判する修正資本主義を唱えたイギリスの経済学者ケインズは,賠償額を決める会議においてイギリス側の代表であったが,経済学者としての立場から妥当な金額は約400億金マルクであると計算した。だが,会議ではそれ以上の過大な額が決められる流れとなり,彼は代表を辞任した。ケインズは過大な賠償金が課せられるならば,次の戦争の火種になると警告を発していた。
VII-18. 賠償問題(2)-ドーズ案-
1923年におきた・ベルギー両軍によるを受けて,アメリカの銀行家を長とする委員会が開かれ,新賠償方式([ 3 ]案)が1924年成立した。[ 3 ]案では,賠償総額と支払期限には触れず,5年間の支払い年額を決めるとともに,多額のアメリカ資本をドイツに提供することが決定された。この結果,ドイツは経済危機を脱し,賠償金を得たイギリスやフランスがアメリカにを支払うという資本の国際的循環が形成された。
[ 3 ]案は独仏の和解に貢献し,25年に[ 2 ]は終了し,さらに条約が締結された。
VII-19. 賠償問題(3)
1924年に成立した案は5年間の暫定案だったので,29年にアメリカの実業家を長とする委員会で新案([ 2 ]案)が作成された。[ 2 ]案では,以後59年間で約358億金マルクを支払うこととし,賠償総額を大幅に減額した(30年実施)。だが,29年から始まったはドイツを襲い,[ 2 ]案による支払いも不可能となったため,アメリカ大統領は31年に賠償支払いの1年間停止([ 4 ]=モラトリアム)を宣言したが,効果はなかった。[ 4 ]=モラトリアムが切れたことを受けて,32年にローザンヌ会議が開かれて賠償総額が30億金マルクに減額されたが,33年に政権を握ったは不払いを宣言した。
VII-20. ヴァイマル共和国(1)
1918年11月,軍港の水兵反乱に始まったドイツ革命(ドイツ十一月革命)では,ロシア革命時の「ソヴィエト」にあたる(評議会)が各地に組織された。これに対し,を中心とする臨時政府は議会制民主主義をめざす一方,軍部などと結び,急進左派勢力をおさえこもうとした。大戦中に戦争に反対する[ 3 ]内の左派はを結成していた。[ 4 ]が中心となり18年末にできたドイツは19年1月にベルリンで武装蜂起を起こしたが鎮圧され,地方の[ 2 ]政権も平定された。[ 5 ]の武装蜂起の混乱を避け,で開かれた国民議会で憲法が制定され,[ 3 ]のを大統領とするドイツ共和国([ 6 ]共和国)が成立した。
[ 4 ]を組織したのは,ポーランド生まれの女性革命家とドイツ人革命家であるが,両人とも19年1月の[ 5 ]の武装蜂起の際に虐殺された。