ナチスは高速道路()建設などの大規模な土木工事を行って失業者を減らすとともに,1936年から「四カ年計画」にもとづく戦争に向けた経済体制づくりに乗り出した。ナチスはヴェルサイユ条約の内容を次々に破っていった。33年,軍備平等権を主張してから脱退した。35年には住民投票によって地方を回復し,をおこなって徴兵制を復活した。これに対して,フランスとソ連がを結ぶと,ドイツは翌36年にを破棄して,非武装地帯に軍隊を進駐させた。ドイツのヴェルサイユ体制破壊の動きに対し,イギリスとフランスはをとり,強硬な姿勢はとらなかった。
(1)ドイツが[ 2 ]を脱退した同じ1933年に日本も,満州国不承認の決議を不服として[ 2 ]を脱退した。(2)ドイツの[ 4 ]に対して,イギリスはドイツにイギリス海軍力の35%の保有を認めるを結び,ドイツの再軍備を事実上追認した。これは,[ 8 ]の始まりとされる。
カテゴリー別アーカイブ: ヴェルサイユ体制の破壊と宥和政策
VII-38. 宥和政策
ヴェルサイユ体制の破壊をすすめるドイツに対するイギリス・フランスの妥協的な態度をと呼ぶ。その政策の背景としてまず第一に挙げられるのが,国民の戦争に対する恐怖心である。第一次世界大戦終結から20年もたっていない時期であり,国民の戦争を回避してほしいという願いは強かった。1938年にイギリス首相はに出席して,チェコスロヴァキアを犠牲にして戦争を回避したが,イギリス国民は帰国した[ 2 ]を「英雄」として歓迎したのである。第二に,ドイツをソ連に立ち向かわせようという思惑があった。ヒトラーは『わが闘争』という著作のなかで,「ドイツの生存権は東方にある」と断言していたことから,ドイツがソ連と戦って両者が弱体化することは歓迎されることであった。
VII-39. イタリアのエチオピア侵略
恐慌によっていきづまった苦境をイタリアの政権は,対外侵略をもって乗り切ろうとし,1935年にに侵攻した。国際連盟は,イタリアを侵略国と認め,経済制裁を実行したが,石油が除外されるなど内容が不十分で,翌36年にイタリアは[ 2 ]全土を征服し,37年に国際連盟を脱退した。[ 1 ]はドイツの再軍備宣言に対して,一時イギリスとフランスに接近したが,[ 2 ]侵略による国際的孤立と,スペイン内戦における支持などを通じてドイツに接近し,36年にと呼ばれる提携関係を結んだ。
イタリアが[ 2 ]に侵攻したのは二度目である。1895~96年の侵攻では,アドワの戦いで敗北して失敗に終わっていた。
VII-40. 人民戦線戦術
ファシズムの台頭を阻止できなかったは,1935年の大会で,社会民主主義政党を敵視する政策を転換して,ファシズムに反対するすべての勢力が協力する反ファシズム統一戦線()を提唱した。フランスでは,36年に共産党の閣外協力のもと,社会党のを首班とする[ 3 ]内閣が誕生した。この内閣は,週40時間労働制や有給休暇制の導入などを行ったが,経済政策に失敗し,[ 3 ]内部における共産党と急進社会党の対立で崩壊した。1931年にブルボン王政が倒れたスペインでも,36年にアサーニャを大統領とする[ 3 ]内閣が誕生したが,将軍による軍事反乱がおき,スペイン内戦が勃発した。
VII-41. スペイン内戦
1931年,スペイン革命が勃発し,ブルボン王政が倒れ,共和政が樹立された。1936年には,アサーニャを首班とする内閣が成立した。これに対して,将軍がスペイン領モロッコで反乱を起こし,内戦が全土に広まった。・イタリアは軍隊を送って[ 2 ]側を支援した。[ 1 ]側には,ソ連の援助や,各国の知識人や社会主義者によるの支援があったが,イギリスとがをとり,また[ 1 ]内部の対立もあったため,39年にマドリードが陥落して[ 2 ]側の勝利に終わった。
(1)[ 4 ]には,スペイン内戦を舞台とする『誰がために鐘は鳴る』を著したアメリカの作家や,スペイン内戦の体験をもとに『カタロニア賛歌』を著したイギリスの作家などが参加した。(2)内戦中にドイツ空軍がを無差別攻撃したことに抗議して,スペインの立体派(キュビズム)の画家ピカソが「[ 9 ]」を描いた。
VII-42. 日独伊による三国枢軸
1930年代にドイツとイタリアは,第一次世界大戦後のヨーロッパにおける国際秩序である体制を破壊していった。一方,1932年の日本による建設は東アジアにおける体制を突き崩すものであった。国際的に孤立した日独伊は急速に接近した。イタリアの侵略とスペイン内戦を通じて,ドイツとイタリアが36年にを結んだ。同年,日本とドイツの間で共産主義に対抗する日独が結ばれ,翌37年にはイタリアも参加して日独伊[ 6 ]が成立し,三国枢軸が形成された。
VII-43. ミュンヘン会談
ドイツのヒトラーは,1938年3月にを併合し,9月には領内のドイツ人居住地区地方の割譲を要求した。[ 2 ]はこれを拒否したが,イギリス首相はフランス首相とともに,ヒトラー・ムッソリーニとを行い,当事国[ 2 ]の参加を認めないまま,さらなる領土要求は行わないという約束で[ 3 ]地方のドイツへの割譲を認めた。翌39年3月,ヒトラーは[ 2 ]解体を行い,西半分のベーメン・メーレンを保護領に,東半分のスロヴァキアを保護国としたため,[ 6 ]による宥和政策は破綻した。そのためイギリスとフランスは軍備を拡大するとともに,ソ連と同盟を結ぶ交渉に入ったが,宥和政策をとってきたイギリスとフランスにソ連のスターリンが不信感を抱いていたため,成立しなかった。
ヒトラーは,[ 3 ]地方の割譲要求に際し,「民族自決」を掲げた。