1861年にがを発布して以降,ロシアでは資本主義が発展した。1890年代になるとの成立(1894年)を背景にフランス資本が導入され,工業化が進展した。91年から建設が始まった鉄道は国内開発を進めただけでなく,東アジア進出の手段となった。ツァーリズムによる専制政治に対する批判も強まり,マルクス主義をとるや,ナロードニキの流れを引くが結成された。[ 5 ]は創設直後に分裂した。少数の革命家からなるのが,が率いた,「多数派」を意味するである。一方,大衆に基礎をおき,ゆるやかな革命をすすめようとするのが,らに率いられた,「少数派」を意味するである。
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VI-24. 帝国主義期のロシアの内政(2)-第1次ロシア革命-
1905年1月,の戦況が不利になるなか,飢餓の救済と和平を皇帝に訴えようとした,聖職者ガポンに率いられた民衆に軍隊が発砲したがおこった。これを機に各地にストライキが広がり,労働者は自らの代表を選んで(評議会)を組織した。皇帝は条約で日本と講和する一方,を発し,国会()の開設を約束し,自由主義者のを首相として事態を沈静化させた。だが,翌06年にが首相になると,自由主義的改革は後退させられた。[ 9 ]は支持基盤を広げるため,農村共同体()を解体して自作農を創出しようとしたが,多数の農民が貧困化して社会不安が高まった。
[ 6 ]発布後に自由主義者は(カデット)を結成し,開設された国会では第一党となった。
VI-25. 帝国主義期のロシアの進出
中央アジアにおいてロシアは,国・ヒヴァ=ハン国・国を併合してロシア領を形成し,81年には清と条約を結んで,新疆への進出を図った。ロシア=トルコ(露土)戦争後に開かれた会議(1878年)でロシアのバルカン半島への進出が阻止されると,中央アジア・東アジア進出を図ったロシアとイギリスが対立するようになった。中央アジア方面においてロシアは,イランとをめぐってイギリスと対立した。
VI-26. 帝国主義期のロシアの進出(2)
東アジア方面におけるロシアの進出は,日本・イギリスと対立した。(1900-01年)後に中国東北地方(満州)からロシア軍が撤退しなかったため,1902年にが結成され,1904年にが勃発した。[ 3 ]に敗北したロシアは,東アジア進出を断念し,イギリスに接近した。ロシアは,1907年にを結び,バルカン半島進出へ再び転じることとなったが,これは第一次世界大戦勃発の背景となった。
(1)[ 4 ]では,イラン北部をロシア,イラン南東部をイギリスの勢力範囲とし,はイギリスの勢力範囲,に関しては清の宗主権を認め,内政不干渉を守るとされた。(2)ロシアが東アジア進出を断念した結果,日本は1907年に,満洲における日露両国の権益を調整(北部はロシア,南部は日本)するを結ぶとともに,ロシアと同盟国のフランスとの間にも日仏協約を結び,日本の韓国における優越と,フランスのインドシナにおける優越を相互に承認した。