清朝は,中国統治にあたっては科挙や官制などは明の制度をほぼ受け継ぎ,儒教を尊重した。中央官制の要職には満洲(満州)人と漢人を同数置くを採用した。また,現存するものとしては中国史上最大の類書(百科事典)である『』,第4代皇帝が編纂させた字書である『』,第6代皇帝が編纂させた一大叢書である『』などの大規模な編纂事業をおこして学者を優遇した。一方,漢人男性には満洲(満州)人の風習であるを強制し,反満洲(満州)的な言論に対してはで厳しく弾圧し,また反満洲(満州)的な図書はとした。外来のヨーロッパ文化には寛容で,宣教師がもたらした暦学・数学・絵画などを重用したが,中国布教の方針をめぐるがおこると,第5代皇帝はキリスト教布教を禁止した。軍制では,満洲(満州)人・モンゴル人・漢人からなるを編成したほか,漢人で編成する治安維持部隊であるをおいた。
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IX-114. 清代の社会
清はモンゴル人を体制内に取り込んでいたため,北方防衛の負担は少なく,また第4代が漢人藩王によるを鎮圧し,を占領すると清朝による支配が安定した。[ 3 ]占領後に,民間貿易を禁じていたを解除する(1684年)と,海上貿易が再び活発となった。清からは,明代までの輸出品である・陶磁器のほか,ヨーロッパでの「生活革命」に応じても輸出されるようになり,多量の外国銀が流入した。1757年,第6代は貿易港を一港に限定し,特許商人組合であるに貿易を請け負わせた。これに対し,18世紀後半に[ 6 ]の輸入が増大したイギリスは,自由な貿易を求め,18世紀末に貿易問題が生じる。
「生活革命」とは,大航海時代以降,タバコ・茶・砂糖・コーヒー・綿織物などの新奇な商品が流入し,17~18世紀にヨーロッパのライフスタイルが変化したことをいう。
IX-115. 清代における税制の変化
税制は,明からのを受け継いでいたが,第4代の時代の18世紀初頭に,(人頭税)を(土地税)に繰り入れるが採用され,制度が簡略化された。[ 5 ]によって人頭税が消滅すると,税を逃れるために隠れていた人口も表に出た。このことと,17世紀中頃からアメリカ大陸原産のやサツマイモが荒れ地・山地で栽培されるようになると,明末清初に1億人程度だった中国の人口は18世紀に急増し,18世紀末には3億人を超えた。農民や地主による抵抗運動も見られた。小作料をめぐるの地主に対するが明末清初以来頻発した。また,土地所有者(地主)が納税を拒否する抗糧も行われ,これは19世紀に多発し,清朝の財政を脅かした。
IX-116. 清代の文化
明末清初という政治の激動を経験したや黄宗羲らは,陽明学に見られるような空論ではなく,より現実的な学問が必要だと主張し,の道を開いた。[ 1 ]や黄宗羲らは,清に抵抗したが,清が厳しく思想統制を行った結果,[ 2 ]は純粋な学問的な古典研究へと性格を変えた。清中期,は,厳密な史料批判を行う[ 2 ]的な史学を確立した。明代の庶民文化の繁栄を受けて,清代においても長編小説と戯曲を中心に庶民文化が都市で栄えた。長編小説では,栄華を極めた貴族家庭の没落を描いた,中国小説史上の最高傑作の一つともいわれる『』や,科挙を風刺して官僚の腐敗を描いた『』が有名である。短編小説では,怪談を集めた『』がある。戯曲では,唐の玄宗と楊貴妃を主題とした『長生殿伝奇』が有名である。
IX-117. イエズス会宣教師の布教
1534年にらによって創立されたの宣教師が,16世紀半ばから中国に来航した。[ 2 ]宣教師は,孔子崇拝や祖先祭祀といった中国伝統の儀礼()を認め,中国名を名乗るなど柔軟な態度で布教した。[ 2 ]宣教師は,布教の手段として西洋の科学技術を伝えたこともあって,『農政全書』を著したらの士大夫がカトリックに改宗した。また,[ 2 ]宣教師は,中国の政治体制や科挙の制度をほめたたえてヨーロッパに伝えた結果,啓蒙思想家が中国と比較してヨーロッパの国家体制を論じる風潮が起き,芸術の上でも(中国趣味)が流行した。しかし,[ 2 ]宣教師が[ 3 ]を認めたことに反対したドミニコ会などの他の宣教師がローマ教皇に訴えた結果,カトリック内部で論争が起こった([ 3 ]問題)。ローマ教皇が[ 2 ]宣教師の布教を異端とすると,第4代皇帝は[ 2 ]以外の布教を禁じ,ついでは1724年にキリスト教の布教を全面的に禁止した。
IX-118. イエズス会宣教師と科学技術
16世紀半ばに中国に来た(利瑪竇りまとう)は,世界地図である「」を刊行し,さらに『農政全書』を著したとともにエウクレイデスの幾何学を翻訳した(『』)。(湯若望)は[ 3 ]らを指導し,西洋の暦法をもとに『』を編纂した。[ 6 ]は,清で『時憲暦』として実施された。(南懐仁)は大砲鋳造や暦法を伝え,康煕帝に仕えた(白進)は中国初の実測の中国地図『』を作成した。(郎世寧)は西洋の絵画技法を伝え,北京郊外につくられたの設計に参画した。
[ 11 ]は,アロー戦争中の1860年,英仏連合軍によって破壊され,現在も廃墟をさらしている。