カテゴリー別アーカイブ: 明・清盛期

IX-113. 清朝の中国統治

清朝は,中国統治にあたっては科挙や官制などは明の制度をほぼ受け継ぎ,儒教を尊重した。中央官制の要職には満洲(満州)人と漢人を同数置く [ 1.満漢併用制 ] を採用した。また,現存するものとしては中国史上最大の類書(百科事典)である『 [ 2.古今図書集成 ] 』,第4代皇帝 [ 3.康煕帝 ] が編纂させた字書である『 [ 4.康煕字典 ] 』,第6代皇帝 [ 5.乾隆帝 ] が編纂させた一大叢書である『 [ 6.四庫全書 ] 』などの大規模な編纂事業をおこして学者を優遇した。一方,漢人男性には満洲(満州)人の風習である [ 7.辮髪 ] を強制し,反満洲(満州)的な言論に対しては [ 8.文字の獄 ] で厳しく弾圧し,また反満洲(満州)的な図書は [ 9.禁書 ] とした。外来のヨーロッパ文化には寛容で, [ 10.イエズス会 ] 宣教師がもたらした暦学・数学・絵画などを重用したが,中国布教の方針をめぐる [ 11.典礼問題 ] がおこると,第5代皇帝 [ 12.雍正帝 ] はキリスト教布教を禁止した。軍制では,満洲(満州)人・モンゴル人・漢人からなる [ 13.八旗 ] を編成したほか,漢人で編成する治安維持部隊である [ 14.緑営 ] をおいた。

IX-114. 清代の社会

清はモンゴル人を体制内に取り込んでいたため,北方防衛の負担は少なく,また第4代 [ 1.康煕帝 ] が漢人藩王による [ 2.三藩の乱 ] を鎮圧し, [ 3.台湾 ] を占領すると清朝による支配が安定した。[ 3 ]占領後に,民間貿易を禁じていた [ 4.海禁 ] を解除する(1684年)と,海上貿易が再び活発となった。清からは,明代までの輸出品である [ 5.生糸 ] ・陶磁器のほか,ヨーロッパでの「生活革命」に応じて [ 6.] も輸出されるようになり,多量の外国銀が流入した。1757年,第6代 [ 7.乾隆帝 ] は貿易港を [ 8.広州 ] 一港に限定し,特許商人組合である [ 9.公行(コホン) ] に貿易を請け負わせた。これに対し,18世紀後半に[ 6 ]の輸入が増大したイギリスは,自由な貿易を求め,18世紀末に貿易問題が生じる。
check_icon6「生活革命」とは,大航海時代以降,タバコ・茶・砂糖・コーヒー・綿織物などの新奇な商品が流入し,17~18世紀にヨーロッパのライフスタイルが変化したことをいう。

IX-115. 清代における税制の変化

税制は,明からの [ 1.一条鞭法 ] を受け継いでいたが,第4代 [ 2.康煕帝 ] の時代の18世紀初頭に, [ 3.丁税 ] (人頭税)を [ 4.地銀 ] (土地税)に繰り入れる [ 5.地丁銀 ] が採用され,制度が簡略化された。[ 5 ]によって人頭税が消滅すると,税を逃れるために隠れていた人口も表に出た。このことと,17世紀中頃からアメリカ大陸原産の [ 6.トウモロコシ ] やサツマイモが荒れ地・山地で栽培されるようになると,明末清初に1億人程度だった中国の人口は18世紀に急増し,18世紀末には3億人を超えた。農民や地主による抵抗運動も見られた。小作料をめぐる [ 7.佃戸 ] の地主に対する [ 8.抗租運動 ] が明末清初以来頻発した。また,土地所有者(地主)が納税を拒否する抗糧も行われ,これは19世紀に多発し,清朝の財政を脅かした。

IX-116. 清代の文化

明末清初という政治の激動を経験した [ 1.顧炎武 ] や黄宗羲らは,陽明学に見られるような空論ではなく,より現実的な学問が必要だと主張し, [ 2.考証学 ] の道を開いた。[ 1 ]や黄宗羲らは,清に抵抗したが,清が厳しく思想統制を行った結果,[ 2 ]は純粋な学問的な古典研究へと性格を変えた。清中期, [ 3.銭大昕(せんたいきん) ] は,厳密な史料批判を行う[ 2 ]的な史学を確立した。明代の庶民文化の繁栄を受けて,清代においても長編小説と戯曲を中心に庶民文化が都市で栄えた。長編小説では,栄華を極めた貴族家庭の没落を描いた,中国小説史上の最高傑作の一つともいわれる『 [ 4.紅楼夢 ] 』や,科挙を風刺して官僚の腐敗を描いた『 [ 5.儒林外史 ] 』が有名である。短編小説では,怪談を集めた『 [ 6.聊斎志異(りょうさいしい) ] 』がある。戯曲では,唐の玄宗と楊貴妃を主題とした『長生殿伝奇』が有名である。

IX-117. イエズス会宣教師の布教

1534年に [ 1.イグナティウス=ロヨラ ] らによって創立された [ 2.イエズス会 ] の宣教師が,16世紀半ばから中国に来航した。[ 2 ]宣教師は,孔子崇拝や祖先祭祀といった中国伝統の儀礼( [ 3.典礼 ] )を認め,中国名を名乗るなど柔軟な態度で布教した。[ 2 ]宣教師は,布教の手段として西洋の科学技術を伝えたこともあって,『農政全書』を著した [ 4.徐光啓 ] らの士大夫がカトリックに改宗した。また,[ 2 ]宣教師は,中国の政治体制や科挙の制度をほめたたえてヨーロッパに伝えた結果,啓蒙思想家が中国と比較してヨーロッパの国家体制を論じる風潮が起き,芸術の上でも [ 5.シノワズリ ] (中国趣味)が流行した。しかし,[ 2 ]宣教師が[ 3 ]を認めたことに反対したドミニコ会などの他の宣教師がローマ教皇に訴えた結果,カトリック内部で論争が起こった([ 3 ]問題)。ローマ教皇が[ 2 ]宣教師の布教を異端とすると,第4代皇帝 [ 6.康煕帝 ] は[ 2 ]以外の布教を禁じ,ついで [ 7.雍正帝 ] は1724年にキリスト教の布教を全面的に禁止した。

IX-118. イエズス会宣教師と科学技術

16世紀半ばに中国に来た [ 1.マテオ=リッチ ] (利瑪竇りまとう)は,世界地図である「 [ 2.坤輿(こんよ)万国全図 ] 」を刊行し,さらに『農政全書』を著した [ 3.徐光啓 ] とともにエウクレイデスの幾何学を翻訳した(『 [ 4.幾何原本 ] 』)。 [ 5.アダム=シャール ] (湯若望)は[ 3 ]らを指導し,西洋の暦法をもとに『 [ 6.崇禎暦書 ] 』を編纂した。[ 6 ]は,清で『時憲暦』として実施された。 [ 7.フェルビースト ] (南懐仁)は大砲鋳造や暦法を伝え,康煕帝に仕えた [ 8.ブーヴェ ] (白進)は中国初の実測の中国地図『 [ 9.皇輿全覧図 ] 』を作成した。 [ 10.カスティリオーネ ] (郎世寧)は西洋の絵画技法を伝え,北京郊外につくられた [ 11.円明園 ] の設計に参画した。
check_icon6[ 11 ]は,アロー戦争中の1860年,英仏連合軍によって破壊され,現在も廃墟をさらしている。