明は成立当初,小農民に依拠する経済と財政の形成をめざし,人の移動や貨幣流通も制限した。明が農村を統制し,保護したこともあり,農業生産力は高まった。長江下流域の江南では,二毛作が進展し,技術改良で稲作がさらに進展し,16世紀に江南はほぼ開発しつくされた。明の建国者が綿花の栽培を奨励したこともあり,綿花栽培が全国に広まった。16世紀に入り国際商業が活発化すると,江南ではや絹織物などの家内制手工業がさかんとなったほか,絹織物業が発達した江蘇省のや浙江省のが商工業都市として発展した。。宋代に「」といわれた穀倉地帯の江南には,明成立後も重い税や小作料が課せられたため,農民は副業として家内制手工業に精を出すようになった。その結果,明末には長江中流域(現在の湖北・湖南省)が新たな穀倉地帯となり,「」と称せられるようになった
カテゴリー別アーカイブ: 明・清盛期
IX-103. 明代の商業・手工業の発達
江西省のに代表される陶磁器も生産をのばし,元末に登場したに加えて,一度焼き上げた白磁の上に多色の顔料で絵を加えて再び焼くも登場した。商業や手工業の発展にともない,商工業者は同郷出身者や同業者の互助や親睦を図るために,都市にやをつくった。また,山西省出身のや安徽省出身のなど,明の政府と結びついて特権を有する遠隔地商人があらわれた。
IX-104. 明代の文化-朱子学-
明の建国者は宋代に始まるを官学として,儒教にもとづく国家体制を築こうと努めた。第3代は勅命をもって,各地の学者を動員し,類書(百科事典)である『』を編纂させた。また[ 3 ]は,四書の注釈書である『』,五経の注釈書である『』を編纂させ,従来の朱子学の学説をまとめさせた。こうした大規模な国家的編纂事業によって[ 2 ]の解釈は統一され,科挙試験の拠り所として用いられたが,思想は固定化され,停滞に向かった。
IX-105. 明代の文化-陽明学・考証学-
『四書大全』『五経大全』などの編纂によって,朱子学は固定化・停滞へと向かったが,これを打破して儒学を新たに発展させたのがであった。南宋のの学説を発展させた[ 1 ]は,心そのものが理()であり,無学な庶民や子どもでも心の中に真正なる道徳をそなえていると主張し,その心のままに実践を行う()ことを説く,をおこした。実践と実用を重んじる[ 5 ]は,朱子学に不満を持つ人々に受け入れられ,江戸時代の日本にも影響を与えた。明末の[ 5 ]の急進派である李贄(りし)は,生まれながらの純真な心を「童心」と称して尊び,ついには孔子や儒教経典を不完全なものと否定すると,危険思想として捕らえられ獄死した。陽明学に対する反動として,明末清初に経典に確実な証拠を求めて実証的に研究しようとするがあらわれた。『日知録』を著したや,『明夷待訪録』を著したらが[ 6 ]の基礎を築いた。
IX-106. 明代の文化-実学-
16世紀に入り産業や商業が発展するなか,キリスト教宣教師が西洋の学術をもたらし,また陽明学がしだいに空論化すると,これらを背景に現実社会に役立つ学問を第一とするがおこった。は古今の薬物の総合書である『』を著し,は農政・農業の総合書である『』を,は産業技術書である『』を著した。こうした科学技術の発展の背景にあったのが系の宣教師の来航である。は,世界地図である「」を刊行し,さらに[ 4 ]とともにエウクレイデスの幾何学を翻訳した(『』)。は,[ 4 ]らを指導し,西洋の暦法をもとに『』を編纂した。
IX-108. 後金の成立
ツングース系の(のちに満洲(州),マンジュと改称)は中国東北地方の東部で半農・半猟・半牧の生活を営み,明の間接統治下にあったが,明の富裕層の間で中国東北地方の特産品である毛皮や薬用ニンジンの需要が高まると,[ 1 ]諸部族間の抗争が激化した。16世紀末に明から自立した(太祖)が[ 1 ]を統合し,1616年にを建国した。[ 2 ]は,[ 1 ]人の社会制度に立脚した軍事組織であるを編成し,モンゴル文字を応用したをつくるなど国家体制を整えて,明軍を破って中国東北地方を支配した。
(1)モンゴルのオゴタイ(オゴデイ)に1234年に滅ぼされた金に対して「後金」という。(2)満洲(州)は女真に代わる民族名であるが,のちに中国東北地方をさす地域名として用いられるようになった。
IX-109. 清の成立
第2代は内モンゴルに進出して,チンギス=ハン以来の大ハン位を継承していた部を従えた。[ 1 ]は民族名を女真からに改め,さらに1636年に国号をと改め,チンギス=ハン以来の大ハン位を継承して皇帝を称した。[ 1 ]は,明の冊封を受けていたため[ 3 ]の建国を認めない朝鮮を攻め,朝鮮を服属させた。また,[ 1 ]は満洲人からなる満洲八旗のほか,平定したモンゴルの兵士からなる,投降してきた漢人からなるを編成した。さらに,[ 1 ]はモンゴル平定後,藩部を統括するを設置した。
IX-110. 清の入関
年にが明を滅ぼすと,万里の長城の東端のを守っていた明の武将が清側についた。そこで,清の第3代皇帝は中国本土に入り,[ 2 ]を倒し,に遷都した。清は協力した[ 4 ]ら3人の漢人武将を南方の雲南・広東・福建に封じてとした(三藩)。
IX-111. 清の版図拡大
清が長城以南の華北に入ることに協力したを初めとする3人の漢人武将は,南方の雲南・広東・福建に封じられ,となった(三藩)。しかし,清の第4代皇帝が三藩の撤廃をはかると,[ 1 ]らは三藩の乱を1673年に起こしたが,[ 3 ]に鎮圧された。一方,東シナ海域では鄭氏一族が日明間の中継貿易を握っていたが,明が滅びると,が人を駆逐して1661年にを占領し,ここを拠点に清に抵抗した。これに対して,[ 3 ]は民間貿易を禁じるを強め,さらに沿岸部の住民を海岸線から離れた地へ強制移住させる遷界令をしいて,鄭氏の活動を抑制した。1683年,鄭氏は[ 3 ]にくだり,台湾が清の版図に加えられた。その後,清は1684年に[ 7 ]を解除し,広州や上海などに税関である海関を設置し,民間貿易を認める開放策に転じた。しかし,この貿易は朝貢貿易の立場はとっていないが,自由な貿易ではない。第6代皇帝は,1757年に貿易港を一港に限定し,という特権商人組合に貿易を管理させた。貿易を恩恵であるとみなす中華の立場は一貫して維持しているのである。貿易をめぐる問題は,18世紀末,イギリスとの衝突を生む。
[ 4 ]は鄭芝竜と日本人との間に生まれた。また,異名を,という。
IX-112. 清朝の最盛期
の乱を鎮圧し,を領有した第4代皇帝は,(アムール川)方面に進出してきたロシアと戦い,年に条約を結び,川と(スタノヴォイ山脈)を両国の国境とした。また,オイラト系の部族である部と対決し,[ 3 ]は自ら遠征して外モンゴルを支配した。第5代皇帝は軍事機密を保持する目的でを設けるとともに,八旗制に改変を加えて君主(皇帝)独裁体制を整えた。対外的には,1727年にロシアと条約を結び,モンゴル方面の国境を画定し,交易場の設置などを決めた。第6代皇帝は,[ 9 ]部を滅ぼして東トルキスタン全域を占領し,これを「」(新しい領土)と名付けた。[ 13 ]のもと,18世紀半ばに清朝の領域は最大に達したが,これが今日の中国の領土の原型をなしている。第4代皇帝[ 3 ]から第6代皇帝[ 13 ]までが清の最盛期である。
(1)イギリスでは,[ 5 ]年にが制定された。(2)[ 11 ]はのちに政治の最高決定機関となった。(3)モンゴル・青海・チベット・[ 14 ]はとされ,理藩院によって統轄された。