内陸アジアの草原地帯は乾燥した気候のため,農耕はむずかしく,羊・牛・馬などの家畜群とともに移動生活を行う遊牧民が活躍した。前9世紀頃に騎馬戦術を身につけたが登場し,前6世紀頃に南ロシアの草原地帯を支配したイラン系のが最初の遊牧国家をつくった。[ 2 ]の文化は,動物文様をほどこした馬具や装身具を特徴とするが,これが他の地域でも見られる騎馬遊牧文化の基礎となった。
[ 2 ]はアケメネス朝の第3代の遠征軍を退け,またマケドニアのフィリッポス2世とも戦った。ペルシア戦争の歴史を著したギリシアの歴史家は,著書『歴史』で[ 2 ]の風俗・習慣についてくわしく書いている。
カテゴリー別アーカイブ: 内陸アジア
IX-120. 秦・漢代のモンゴル高原
イラン系のがつくった騎馬遊牧文化を摂取したは,前3世紀末に即位したのもと,西方にいたを追ってタリム盆地を支配下に置き,東では漢のを破って漢に和親策をとらせた。しかし,漢の第7代の反撃にあって東西交易の利益を失って衰え,前1世紀半ばに東西に分裂した。西[ 2 ]は前漢に敗れ,滅亡した。一方,,東[ 2 ]は漢に服属したのち,勢力を回復したが,後1世紀半ばに南北に再び分裂した。南[ 2 ]は後漢に降伏する一方,北[ 2 ]は後漢に敗れたのち西方に移動した。
[ 4 ]はアム川上流域に移ってと呼ばれた。[ 6 ]は[ 2 ]を挟撃するために,を[ 7 ]に派遣した。
IX-121. 魏晋南北朝から唐代までのモンゴル高原
匈奴が衰えたのち,2世紀半ばにがモンゴル高原を支配したが,4世紀になると南下して華北にを建てた。[ 1 ]にかわって,5世紀にモンゴル高原を支配したは,6世紀にトルコ系のに滅ぼされた。[ 4 ]は,ササン朝のと同盟して中央アジアのを滅ぼして中央アジアまで支配したが,内紛と隋の離間策によって東西に分裂した。中央アジアを支配した西[ 4 ]は,唐に敗れたのち滅亡した。モンゴル高原を支配した東[ 4 ]は,一時唐に服属したのち,独立したが,744年にトルコ系のに滅ぼされた。[ 7 ]はの乱で唐を支援したが,840年にトルコ系のに敗れて滅んだ。
[ 4 ]文字は,騎馬遊牧民最古の文字とされる。
IX-122. ウイグル
ウイグルは,モンゴル高原を支配した系の騎馬遊牧民。744年に[ 1 ]系のを滅ぼして建国し,755年に勃発したでは唐に援軍を送るなど,強勢を誇った。往来したイラン系の商人の影響で教を信奉した。また,[ 4 ]文字に由来するウイグル文字を使ったが,ウイグル文字はモンゴル文字・満州文字のもととなった。内乱に乗じて侵入した[ 1 ]系のにより840年に滅亡した。滅亡後に四散したが,天山方面に逃れた一派が建てた西ウイグル王国はこの地域がトルコ化する始まりとなった。
[ 5 ]教は,3世紀前半に[ 5 ]が教をもとに,キリスト教・仏教の要素を融合して開いたもの。
IX-123. トルキスタン
トルキスタンは,パミール高原を境に東西に広がる地域。トルキスタンとはペルシア語で「トルコ人の土地」という意味であるが,9世紀半ばにトルコ系の騎馬遊牧民がやってきたときからトルコ化が始まり,10世紀半ばにトルコ系イスラーム王朝朝が成立したのちにイスラーム化した。現在の中央アジア5か国とアフガニスタン北部にあたるパミール高原以西が西トルキスタンであるが,古くはイラン系の人が住んでいたにあたる。現在の中国の新疆ウイグル自治区にあたるパミール高原以東が東トルキスタンで,清の第6代皇帝が征服し,に加えた地域である。
IX-124. 明・清代のモンゴル高原
840年にが崩壊したのち,13世紀にモンゴル帝国が登場するまでモンゴル高原を統一する勢力は現れなかった。北元が崩壊したのち,モンゴル系諸部族のうち,とモンゴル高原の支配者はかわった(参照:IX-92,IX-96)。1550年に北京を包囲した[ 3 ]のが黄帽派の(ラマ教)に帰依して以降,モンゴル人の間に[ 5 ]が広まった。明代に,モンゴルの部族が内モンゴルを支配したが,1635年に清の第2代に征服された。17~18世紀半ばに[ 2 ]の一部族が現在の新疆ウイグル自治区の北部を支配したが,18世紀半ばに清の第6代に滅ぼされた。
IX-125. チベットの動向
7世紀にがチベットを統一し,を都とする初の統一王朝を建国した。この王朝を中国ではと呼んだ。[ 1 ]はチベット文字を制定し,唐の太宗の皇女を迎えて唐と親交を結んだ。安史の乱に乗じて,[ 3 ]は一時唐の都のを占領した。その後も唐と抗争を繰り返したが,9世紀前半に唐との和平が結ばれて[ 2 ]に唐蕃会盟碑が建立された。しかし,[ 3 ]は9世紀後半に東西に分裂して衰えた。その後,チベットは明に服属したのち,清のとされた。1911年に起きた辛亥革命を機に,1913年にダライ=ラマ13世が独立を主張する布告を出し,チベットは事実上独立した。中華人民共和国成立後,1951年に中国の人民解放軍が進駐し,チベットは中国に併合された。1959年に起きたチベット反乱を中国の人民解放軍が制圧した際に,ダライ=ラマ14世はインドへ亡命した。
[ 2 ]には,という歴代のダライ=ラマの宮殿がある。
IX-126. チベット仏教(ラマ教)
チベット仏教(ラマ教)は,インドから伝わった大乗仏教とチベット固有の民間信仰が融合して8世紀に成立した大乗仏教の一派である。チベット最初の統一王朝であるの国教とされた。元朝の保護を受けたのち,14世紀にが改革を行い,を開いた。韃靼(タタール)のが[ 3 ]に帰依したのち,[ 3 ]はモンゴル人に広まった。[ 4 ]が高僧に贈った称号がで,その後チベット仏教の最高権威者の称号として用いられてきた。[ 5 ]は転生するものとされ,現在は[ 5 ]14世である。[ 5 ]14世は,1959年に起きたチベット反乱を中国の人民解放軍が制圧した際にインドへ亡命し,1989年にノーベル平和賞を受賞した。
IX-127. 雲南地方の動向
雲南は中国南西部に当たる地域。チベット=ビルマ系の人々が雲南に建てた王国は唐に朝貢していたが,755年に勃発した以降,唐との関係が悪化し,チベットのと組んで唐に侵攻した。独特の仏教文化を持っていたが,902年に漢人の家臣によって簒奪され滅んだ。[ 1 ]滅亡後,白蛮系の豪族がを建てた。[ 4 ]は宋に朝貢していたが,モンゴル帝国の第4代皇帝(憲宗)に派遣されたによって1254年に滅ぼされた。
IX-128. 中央アジア-大月氏-
騎馬遊牧民であるはモンゴル高原西部を支配していたが,前2世紀前半にの冒頓単于の攻撃を受けてイリ地方へ移動した。しかし,の攻撃を受け,アム川上流域に移ったのち,(前140頃~後1世紀)を名乗った。前漢の第7代皇帝は[ 2 ]を挟撃しようとを派遣したが,[ 4 ]は漢との同盟は断った。