前漢のが・鉄・酒を専売にして以来,人体にとって必需品の[ 2 ]は歴代王朝にとって重要な財源であったた。財政再建を図る唐も,[ 2 ]の密売人を厳しく取り締まっていた。そのようななか,山東で[ 2 ]の密売人が挙兵すると,これに呼応してが年に挙兵した。[ 4 ]の乱は884年に鎮圧されたが,唐の衰退は決定的となり,年に節度使のによって唐は滅ぼされた。
(1)[ 7 ]は初め[ 4 ]の部下であった。唐に降ったのちに節度使となった。(2)[ 5 ]年,中央アジアでイラン系イスラーム王朝朝が成立した。
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IX-55. 唐代の社会経済(1)
人口100万を数える大都市であった首都のには,中継商人としてイラン系の人が往来し,また朝が滅亡して多くのイラン人が移住してきた。その結果[ 1 ]は,国際色豊かな都市であり,エフェソス公会議(431年)で異端とされた派キリスト教()や,(ゾロアスター教)・マニ教の寺院もつくられた。一方海上貿易において,アラブ・イラン系の商人(イスラーム教徒の商人)が訪れ,長江の北岸にあるや広東省のが発展した。[ 9 ]には海上貿易を担当した役所であるが初めて置かれた。
IX-56. 唐代の社会経済(2)
唐による統治が安定してくると,農業生産力も一段と上昇した。唐の半ばには華北で,小麦の生産が普及し,粟(あわ)と小麦・大豆を組み合わせた2年三毛作が広まった。江南では,水稲耕作の技術が向上し,さらに南方に水田地帯が広まった。また,四川から栽培が始まったとされるが一般民衆に広まった。首都のでは,商品売買を行う場所は(東市・西市)に限定され,時間も限る坊市制があったが,唐末にはこの規制は崩壊した。
IX-57. 唐代の文化-宗教-
唐代の文化は,東西交易が盛んとなったことを背景に国際色豊かなものであった。当初,主な担い手は貴族だったため,貴族的性格が強かったが,唐代の中期からは貴族趣味を脱した。儒学は,科挙の試験科目となり,経書の字句解釈を主とする漢代以来のが重視され,太宗の命により科挙のテキストとして,が『』をつくった。仏教は帝室・貴族に支持されて栄えた。往復とも陸路でインドにおもむいたや,往復とも海路を用いたが経典を持ち帰り,仏典の翻訳が進められた。しかし,9世紀半ばには会昌の廃仏と呼ばれる仏教弾圧も行われた。唐の後半には,阿弥陀浄土信仰を説くや,座禅によって悟りを得ようとするがさかんとなった。
[ 4 ]はインドの朝のハルシャ王の厚遇を得て,僧院で学び,帰国後『』を著した。[ 5 ]は帰国途中にスマトラ島ので『』を著した。
IX-58. 唐代の文化-文学・絵画・書・工芸-
科挙で詩作が重んじられたこともあり,唐詩が隆盛となった。詩人・画家の王維は,自然美を歌い,画家としては山水画を描いた人物で,のちに「南画の祖」とされた。一時玄宗に仕え,「詩仙」と称された,「春望」などで知られ「詩聖」と称される,玄宗と楊貴妃をうたった「長恨歌」で知られるらが活躍した。唐後期の文学者で唐宋八大家に数えられる(韓退之)とは,形式美を追う(表示している駢の字は簡易慣用字体のもの,教科書を見て正確な字を確認すること)に対し,漢以前の力強い古文復興を唱えた。絵画では,人物画や山水画,仏画などあらゆる絵画分野で唐随一とたたえられたが有名である。唐初の書家である,ちょ遂良(漢字:楮の字のきへんがころもへん)は則天武后を皇后とすることに反対したため,高宗から左遷された。また書家では,安史の乱で義勇軍を率いて反乱軍と戦ったが有名である。工芸では,で知られる陶磁器が有名である。
[ 4 ]と[ 5 ]の他の唐宋八大家で重要なのは,宋代の次の3人。『新唐書』などを著した,「赤壁賦」で知られる,神宗のもとで改革を実施したである。