年に唐を滅ぼしたは,(現在の開封)を都とするを建国した。[ 4 ]は,トルコ系の勢力に滅ぼされ,その後[ 5 ]出身者が・・を次々に建国した。[ 8 ]はに滅ぼされたが,[ 4 ]・[ 6 ]・[ 7 ]・[ 8 ]・[ 9 ]をという。[ 10 ]の五王朝は[ 6 ]がを都としたほかは,[ 3 ]に都を置いた。華北にできたこれらの五王朝と,華中と華南で興亡した10の国を合わせて,[ 10 ]十国という。この時代に,唐代まで大きな勢力をなしていた貴族は節度使らの武人勢力により追い落とされ,荘園も失って没落し,かわって新興の地主層が力を伸ばしていく。また,北方の諸民族が大きな力をもち,東アジア世界は新たな時代へと入っていく。
五代の順番は,[ 4 ]をのぞく四つの王朝は,唐→晋→漢→周と古い時代へさかのぼると覚えよう。
カテゴリー別アーカイブ: 五代・宋・元
IX-60. 東アジア周辺の変動
唐滅亡後,東アジア周辺では大変動がおきた。北方では,840年にトルコ系のが同じトルコ系のに滅ぼされたのち,トルコ系民族が中央アジアへ移動すると,モンゴル系のが自立した。朝鮮では,にかわりが918年に建国された。9世紀中頃,チベットのが分裂して衰退した。10世紀初めに雲南にあったが滅亡すると,がこれにかわった。ベトナムでも中国からの自立の動きが高まり,11世紀に成立したの李朝は宋軍を撃退した。11世紀に黄河上流域でチベット系のがを建てた。12世紀初め,ツングース系のが[ 3 ]から独立し,を建てた。[ 3 ]・[ 10 ]・[ 12 ]の北方諸民族は,それぞれ宋を攻撃し,苦しめた。10世紀から元が滅亡する14世紀までは,漢人が北方の諸民族に苦しめられる状況が続いた。
[ 11 ]の大夏は[ 10 ]側の呼称で,宋では中国古代の夏と区別するため西夏と呼んだ。
IX-61. 遼
モンゴル系の遊牧狩猟民である(キタイ)は,ウイグルと唐の衰退とともにモンゴル高原東部で勢力を強めた。年にが皇帝に即位して(キタイ帝国)を建てた。東方では926年にを滅ぼし,西方ではウイグル崩壊後のモンゴル高原を支配下に置いた。[ 4 ]は,五代の後晋の建国を助けた代償として,長城以南の河北・山西の北部()を獲得した。宋の成立後も華北に侵入し,年に宋を兄,[ 4 ]を弟とし,宋が[ 4 ]に毎年多額の銀と絹を歳幣として贈ることを条件とする和議を結んだ()。[ 4 ]は北方民族に対しては北面官が部族制で統治し,漢人の農耕民に対しては南面官が州県制で統治するを敷いて,性格の異なる社会をまとめようとした。[ 3 ]らによって作られた[ 1 ]文字は,漢字とウイグル文字の影響を受けている。
IX-62. 西夏(大夏)
宋の西北に位置する陝西(せんせい)・甘粛(かんしゅく)方面にいたチベット系のは,1038年,のもとで(西夏は宋の呼称で,一般に西夏を用いる)を建てた。[ 3 ]は東西交易の要衝をおさえ,中継貿易で栄えた。[ 3 ]はしばしば宋に侵入したため,宋は[ 2 ]を冊封し,毎年銀・絹・茶を贈ることで講和した。[ 3 ]では仏教がさかんで,漢字の影響を受けた[ 3 ]文字が作られた。1227年,モンゴルのによって滅ぼされた。
中央アジアでは,1038年,朝が成立した。
IX-63. 金
ツングース系のは中国東北地方の東部で半農・半猟・半牧の生活を営んでいたが,長くモンゴル系の(遼)の支配下にあった。1115年,が独立し,を建てた。[ 4 ]は宋と結んで,1125年に[ 2 ](遼)を滅ぼした。その後,宋が背信行為を働いたこともあり,[ 4 ]はさらに南下し,1127年に宋を滅ぼした()。[ 4 ]は[ 2 ](遼)の二重統治体制を受け継ぎ,漢人には州県制で統治する一方,[ 1 ]人には部族制にもとづくという軍事・行政制度を適用した。[ 4 ]では,[ 2 ]文字と漢字を模した[ 1 ]文字が作られた。
IX-64. 西遼
宋との攻撃によって遼が滅ぼされたとき,中央アジアにのがれた王族のが,イスラーム国家である朝を滅ぼし,1132年にを建国した。間接支配で東西トルキスタンを支配したが,チンギス=ハンにおわれたトルコ系のナイマンに王位を奪われて1211年に滅んだ。
西遼は中国での呼称,カラ=キタイ(カラキタイ)はイスラーム側の呼称。
IX-65. 宋
五代最後の王朝の武将(太祖)が960年に宋を建て,第2代が中国の統一を完成させた。女真が建てたが侵入()して1127年に江南に逃れたので,北宋と南宋にわける。北宋は大運河と黄河の合流地点にあたる(現在の開封)を都とし,南宋は大運河の南端に位置するに都を置いた。
臨安とは臨時の都という意味。
IX-66. 宋代における君主独裁体制
中国では,安史の乱(755~63年)以降,独立勢力であるが割拠し,武人によるが続いてきた。960年に宋を建てたは,の実権を奪って皇帝に権力を集中するとともに,科挙によって選抜された文人官僚を重用するをとった。[ 3 ]は,科挙の最終試験として皇帝自らが行うを採用した。[ 6 ]が加えられたことで,官僚と皇帝が直接結びつき,君主(皇帝)独裁体制が強化された。
IX-67. 宋代における支配層
科挙は家柄や階層を問わず受験できたが,合格に必要な儒学や詩文の教養を身につけるためには,幼い頃からの受験勉強が必要で,合格出来るのは富裕な家の子弟に限られた。唐末から五代にかけて没落した貴族にかわって,宋代に科挙に合格し,官僚を出した家()となったのは,新興地主層のであった。[ 2 ]は,小作人であるを用いて荘園を経営する地主層であった。儒学の教養を身につけた科挙出身の官僚は,と呼ばれる知識層でもあった。
科挙に合格して官僚となったのはほとんど形勢戸だったことから,まとめて官戸形勢戸と呼ばれた。
IX-68. 宋における国家財政の窮乏
文治主義をとった宋は,対外的な軍事力の低下を招いた。宋は,侵入してきた北方諸民族に対して守勢に立ち,講和を結ぶ消極策をとった。モンゴル系のとは,年,宋が兄,[ 1 ]を弟とするを結び,毎年莫大な絹と銀の歳幣を贈ることを約した。また,タングートのとは1044年に,[ 4 ]が臣下の礼をとる代わりに,宋が毎年絹・銀・茶の歳賜(さいし)を贈ることを約した。軍事費の増大と,歳幣・歳賜の出費は宋の財政を圧迫し始めた。さらに,文治主義による官僚の増大と組織の肥大化は,国家財政の窮乏を深刻な状態へと追いやった。こうした状況下,第6代皇帝は,を宰相に登用し,改革(新法)を行った。
(1)宋では,唐代に一般民衆に広まったを専売制とした。(2)歳賜とは目下に贈るもの,歳幣は同等のものに贈るもの。1142年の金との講和では,南宋が臣下の礼をとるため,歳貢という。