カテゴリー別アーカイブ: 五代・宋・元

IX-59. 五代十国

[ 1.907 ] 年に唐を滅ぼした [ 2.朱全忠 ] は, [ 3.べん州(べん京:漢字:さんずいに卞) ] (現在の開封)を都とする [ 4.後梁 ] を建国した。[ 4 ]は,トルコ系の [ 5.突厥 ] 勢力に滅ぼされ,その後[ 5 ]出身者が [ 6.後唐 ] [ 7.後晋 ] [ 8.後漢 ] を次々に建国した。[ 8 ]は [ 9.後周 ] に滅ぼされたが,[ 4 ]・[ 6 ]・[ 7 ]・[ 8 ]・[ 9 ]を [ 10.五代 ] という。[ 10 ]の五王朝は[ 6 ]が [ 11.洛陽 ] を都としたほかは,[ 3 ]に都を置いた。華北にできたこれらの五王朝と,華中と華南で興亡した10の国を合わせて,[ 10 ]十国という。この時代に,唐代まで大きな勢力をなしていた貴族は節度使らの武人勢力により追い落とされ,荘園も失って没落し,かわって新興の地主層が力を伸ばしていく。また,北方の諸民族が大きな力をもち,東アジア世界は新たな時代へと入っていく。
check_icon6五代の順番は,[ 4 ]をのぞく四つの王朝は,唐→晋→漢→周と古い時代へさかのぼると覚えよう。

IX-60. 東アジア周辺の変動

唐滅亡後,東アジア周辺では大変動がおきた。北方では,840年にトルコ系の [ 1.ウイグル ] が同じトルコ系の [ 2.キルギス ] に滅ぼされたのち,トルコ系民族が中央アジアへ移動すると,モンゴル系の [ 3.契丹(キタイ) ] が自立した。朝鮮では, [ 4.新羅 ] にかわり [ 5.高麗 ] が918年に建国された。9世紀中頃,チベットの [ 6.吐蕃 ] が分裂して衰退した。10世紀初めに雲南にあった [ 7.南詔 ] が滅亡すると, [ 8.大理 ] がこれにかわった。ベトナムでも中国からの自立の動きが高まり,11世紀に成立した [ 9.大越国 ] の李朝は宋軍を撃退した。11世紀に黄河上流域でチベット系の [ 10.タングート ] [ 11.西夏(大夏) ] を建てた。12世紀初め,ツングース系の [ 12.女真 ] が[ 3 ]から独立し, [ 13.] を建てた。[ 3 ]・[ 10 ]・[ 12 ]の北方諸民族は,それぞれ宋を攻撃し,苦しめた。10世紀から元が滅亡する14世紀までは,漢人が北方の諸民族に苦しめられる状況が続いた。
check_icon6[ 11 ]の大夏は[ 10 ]側の呼称で,宋では中国古代の夏と区別するため西夏と呼んだ。

IX-61. 遼

モンゴル系の遊牧狩猟民である [ 1.契丹 ] (キタイ)は,ウイグルと唐の衰退とともにモンゴル高原東部で勢力を強めた。 [ 2.916 ] 年に [ 3.耶律阿保機(太祖) ] が皇帝に即位して [ 4.] (キタイ帝国)を建てた。東方では926年に [ 5.渤海 ] を滅ぼし,西方ではウイグル崩壊後のモンゴル高原を支配下に置いた。[ 4 ]は,五代の後晋の建国を助けた代償として,長城以南の河北・山西の北部( [ 6.燕雲十六州 ] )を獲得した。宋の成立後も華北に侵入し, [ 7.1004 ] 年に宋を兄,[ 4 ]を弟とし,宋が[ 4 ]に毎年多額の銀と絹を歳幣として贈ることを条件とする和議を結んだ( [ 8.せん淵の盟(漢字:さんずいに亶) ] )。[ 4 ]は北方民族に対しては北面官が部族制で統治し,漢人の農耕民に対しては南面官が州県制で統治する [ 9.二重統治体制 ] を敷いて,性格の異なる社会をまとめようとした。[ 3 ]らによって作られた[ 1 ]文字は,漢字とウイグル文字の影響を受けている。

IX-62. 西夏(大夏)

宋の西北に位置する陝西(せんせい)・甘粛(かんしゅく)方面にいたチベット系の [ 1.タングート ] は,1038年, [ 2.李元昊(りげんこう) ] のもとで [ 3.西夏(大夏) ] (西夏は宋の呼称で,一般に西夏を用いる)を建てた。[ 3 ]は東西交易の要衝をおさえ,中継貿易で栄えた。[ 3 ]はしばしば宋に侵入したため,宋は[ 2 ]を冊封し,毎年銀・絹・茶を贈ることで講和した。[ 3 ]では仏教がさかんで,漢字の影響を受けた[ 3 ]文字が作られた。1227年,モンゴルの [ 4.チンギス=ハン ] によって滅ぼされた。
check_icon6中央アジアでは,1038年, [ 5.セルジューク ] 朝が成立した。

IX-63. 金

ツングース系の [ 1.女真(女直) ] は中国東北地方の東部で半農・半猟・半牧の生活を営んでいたが,長くモンゴル系の [ 2.契丹 ] (遼)の支配下にあった。1115年, [ 3.完顔阿骨打(太祖) ] が独立し, [ 4.] を建てた。[ 4 ]は宋と結んで,1125年に[ 2 ](遼)を滅ぼした。その後,宋が背信行為を働いたこともあり,[ 4 ]はさらに南下し,1127年に宋を滅ぼした( [ 5.靖康の変 ] )。[ 4 ]は[ 2 ](遼)の二重統治体制を受け継ぎ,漢人には州県制で統治する一方,[ 1 ]人には部族制にもとづく [ 5.猛安・謀克 ] という軍事・行政制度を適用した。[ 4 ]では,[ 2 ]文字と漢字を模した[ 1 ]文字が作られた。

IX-64. 西遼

宋と [ 1.] の攻撃によって遼が滅ぼされたとき,中央アジアにのがれた王族の [ 2.耶律大石 ] が,イスラーム国家である [ 3.カラ=ハン(カラハン) ] 朝を滅ぼし,1132年に [ 4.西遼(カラ=キタイ) ] を建国した。間接支配で東西トルキスタンを支配したが,チンギス=ハンにおわれたトルコ系のナイマンに王位を奪われて1211年に滅んだ。
check_icon6西遼は中国での呼称,カラ=キタイ(カラキタイ)はイスラーム側の呼称。

IX-65. 宋

五代最後の王朝 [ 1.後周 ] の武将 [ 2.趙匡胤(ちょうきょういん) ] (太祖)が960年に宋を建て,第2代 [ 3.太宗 ] が中国の統一を完成させた。女真が建てた [ 4.] が侵入( [ 5.靖康の変 ] )して1127年に江南に逃れたので,北宋と南宋にわける。北宋は大運河と黄河の合流地点にあたる [ 6.べん京(漢字:さんずいに卞) ] (現在の開封)を都とし,南宋は大運河の南端に位置する [ 7.臨安(杭州) ] に都を置いた。
check_icon6臨安とは臨時の都という意味。

IX-66. 宋代における君主独裁体制

中国では,安史の乱(755~63年)以降,独立勢力である [ 1.藩鎮 ] が割拠し,武人による [ 2.武断政治 ] が続いてきた。960年に宋を建てた [ 3.趙匡胤(太祖) ] は, [ 4.節度使 ] の実権を奪って皇帝に権力を集中するとともに,科挙によって選抜された文人官僚を重用する [ 5.文治主義 ] をとった。[ 3 ]は,科挙の最終試験として皇帝自らが行う [ 6.殿試 ] を採用した。[ 6 ]が加えられたことで,官僚と皇帝が直接結びつき,君主(皇帝)独裁体制が強化された。

IX-67. 宋代における支配層

科挙は家柄や階層を問わず受験できたが,合格に必要な儒学や詩文の教養を身につけるためには,幼い頃からの受験勉強が必要で,合格出来るのは富裕な家の子弟に限られた。唐末から五代にかけて没落した貴族にかわって,宋代に科挙に合格し,官僚を出した家( [ 1.官戸 ] )となったのは,新興地主層の [ 2.形勢戸 ] であった。[ 2 ]は,小作人である [ 3.佃戸(でんこ) ] を用いて荘園を経営する地主層であった。儒学の教養を身につけた科挙出身の官僚は, [ 4.士大夫 ] と呼ばれる知識層でもあった。
check_icon6科挙に合格して官僚となったのはほとんど形勢戸だったことから,まとめて官戸形勢戸と呼ばれた。

IX-68. 宋における国家財政の窮乏

文治主義をとった宋は,対外的な軍事力の低下を招いた。宋は,侵入してきた北方諸民族に対して守勢に立ち,講和を結ぶ消極策をとった。モンゴル系の [ 1.契丹(遼) ] とは, [ 2.1004 ] 年,宋が兄,[ 1 ]を弟とする [ 3.せん淵の盟(漢字:さんずいに亶) ] を結び,毎年莫大な絹と銀の歳幣を贈ることを約した。また,タングートの [ 4.西夏(大夏) ] とは1044年に,[ 4 ]が臣下の礼をとる代わりに,宋が毎年絹・銀・茶の歳賜(さいし)を贈ることを約した。軍事費の増大と,歳幣・歳賜の出費は宋の財政を圧迫し始めた。さらに,文治主義による官僚の増大と組織の肥大化は,国家財政の窮乏を深刻な状態へと追いやった。こうした状況下,第6代皇帝 [ 5.神宗 ] は, [ 6.王安石 ] を宰相に登用し,改革(新法)を行った。
check_icon6(1)宋では,唐代に一般民衆に広まった [ 7.] を専売制とした。(2)歳賜とは目下に贈るもの,歳幣は同等のものに贈るもの。1142年の金との講和では,南宋が臣下の礼をとるため,歳貢という。