14世紀に世界は寒冷化し,世界各地で天候不順による不作や飢饉が続き,自然災害や疫病が多発した。このような状況下,元朝の支配が衰えた。元末に,民間の仏教系宗教結社が起こした農民反乱が拡大し,貧農出身のがその中から頭角を現し,年に(現在の南京)で皇帝の位についた。[ 3 ]は廟号の呼び名で明のと呼ばれるが,明代から皇帝が自らの治世下で元号を変更しないの制が始まったため,元号を用いてとも呼ばれる。明軍に追われた元の朝廷はモンゴル高原に退き,を建てたが,[ 8 ]の攻撃により2代で滅亡した。南京を都として中国を統一した明は,江南からおこって中国を統一した初めての王朝となった。
「こうきん」の乱は2つある。後漢末に起きたのが「黄巾」で,元末におきたのは「紅巾」である。
カテゴリー別アーカイブ: 明・清盛期
IX-93. 明の制度
明を建てたは元末の混乱をおさめるため,皇帝に権力を集中させたほか,漢民族の文化を重視し,儒教を通じた社会規範の再確立を図った。[ 1 ]は,唐代にできた三省のうち最後まで残っていたとその長官であったを廃止して,を皇帝に直属させ,宋代に始まった君主(皇帝)独裁体制を完成させた。また,を官学とし,官僚はによって選抜した。軍制では,軍戸の戸籍を設けてを編成した。農村では,土地台帳であると戸籍・租税台帳であるをつくり,一家を民戸として登録し,徴税や治安維持の責任を負わせるを実施した。民衆教化のために儒教にもとづくを定め,唐の律・令にならって,明律・明令を制定した。
IX-94. 永楽帝
第2代皇帝が諸王勢力の削減を図ると,1399年にのが挙兵し(),南京を占領して1402年に帝位についた()。洪武帝がを廃止したのに対して,[ 5 ]は皇帝の補佐機関として内閣を組織し,新たにを設置して皇帝の顧問とした。1421年,首都を金陵(南京)から自らの根拠地であった[ 2 ]に移した。[ 5 ]は,積極的な対外政策を展開し,イスラーム教徒のであるの大船団を東南アジア・インド洋に派遣して,朝貢を促した。また,滅亡後のベトナムに出兵し,一時併合した。北方では,自らモンゴルに遠征を繰り返し,また女真人を従えた。[ 5 ]の命により,類書(百科事典)である『』,四書の注釈書である『』,五経の注釈書である『』が編纂された。
小アジアでは,1402年にでティムールがを破った。
IX-95. 倭寇と海禁
宋・元代には海上貿易が発展し,明州(明以降は,)やマルコ=ポーロがキンザイと呼んだなどの港市が栄えた。14世紀に入ると,東アジア一帯に動乱が広がった。中国では,元が衰退し,明が成立した。日本では14世紀に,鎌倉幕府が滅亡し,南北朝時代の混乱が続くと,交易を担っていた商人や武士団などが独自の行動をとるようになり,海上や沿岸で略奪行為を働くようになった。彼らは,(前期倭寇)と呼ばれ,朝鮮の沿岸や,元末明初の内乱で混乱する中国沿岸を襲った。明を建国したは,[ 3 ]を力で押さえ込むため,民間の海上交易そのものを禁止し(),対外関係を朝貢・関係に限定した。そこで,室町幕府の将軍足利義満は日本国王に[ 7 ]された上で,[ 3 ]の取り締まりを条件に,朝貢貿易であるに参加した。ヨーロッパ人が世界各地に進出するが始まると,16世紀に国際貿易がさかんとなった。明の周辺でも,[ 6 ]政策を破って貿易の利益を得ようとする動きが活発化し,中国人を主体とする私貿易商人たちが中国や朝鮮の沿岸都市を襲った()。明は従来の貿易統制政策をとることが出来ず,16世紀後半に[ 6 ]を緩和し,[ 3 ]の争乱はおさまった。
IX-96. モンゴル諸部族の台頭
明は,海上交易において民間貿易を禁止し(),貿易のみを認めるという厳しい交易管理をとったが,内陸の交易についても同じでモンゴルや女真には[ 2 ]の形式をとらせ,規模や回数も制限した。モンゴル諸部族は,これに不満を持ち,しばしば中国に侵入した。モンゴル高原では,元の残存勢力が建てたが滅んだのち,東部のと,西部のと呼ばれるモンゴル系諸部族が勢力を競っていた。1449年,[ 5 ]のが土木堡(どぼくほ)で明軍を破り,明のをとらえた()。これ以降,守勢に立った明はを築き,モンゴルの侵入に備えた。16世紀になると,モンゴルを統合した[ 4 ]のが侵入を繰り返し,1550年には明の都を包囲した。
[ 10 ]は,のチベット仏教(ラマ教)の信者となったことから,以降モンゴル人の間にチベット仏教が広まった。
IX-97. 明による貿易統制政策の動揺
15世紀に始まるにおいて,ヨーロッパ人は世界各地に進出して世界の一体化が始まった。これを背景に,16世紀になると,国際商業が活発化した。これにともない,明による内陸と海上における貿易統制政策を破って貿易の利益を得ようという動きが活発化した。北方では,のが侵入を繰り返し,南方では民間貿易を禁じたを破って海上での密貿易や海賊行為が再び激化した()。これらの明による貿易統制に対抗する動きを「」と呼ぶが,明は従来の貿易統制政策をとることが出来ず,16世紀後半に政策を転換した。北方では,[ 3 ]と講和を結び,[ 3 ]を冊封した上で,交易に応じた。南方では,[ 4 ]をゆるめたが,民間貿易を全面的に認めたものではなく,明から日本への渡航は禁止されたままであった。
IX-98. 明における税制の変化
中国では,モンゴル時代に銀が基本通貨として用いられ,銀の使用がさかんであった。だが,明は小規模自作農に依拠する経済と財政の形成をめざし,当初は貨幣流通も制限され,銀の使用が下火となった。16世紀に入り,明が貿易統制政策をゆるめると,中国をめぐる国際貿易も活発化した。しかし,ヨーロッパや日本には中国に対するめぼしい輸出品はなかったため,生糸や景徳鎮産などのの代価として,石見(いわみ)銀山などで産出されると,スペイン商人がもたらすが大量に明に流入することとなった。これを背景に,税の納入も銀で行われるようになり,各種の税や徭役(ようえき)を一本化して銀で納入するが行われるようになった。16世紀後半,時代初期に改革を行ったが,[ 4 ]を全国的に施行した。
[ 4 ]は,唐中期から用いられたにとってかわった。
IX-99. 16~17世紀の東アジアの状況(1)
日本では,石見(いわみ)銀山などの主要銀山と,堺・長崎などの貿易港を掌握した豊臣秀吉が,日本を統一した。秀吉は,軍事力による東アジア交易体制の再編をねらい,朝鮮に対し服属と明出兵への先導を求めた。明の冊封を受けていた朝鮮がこれを拒否すると,秀吉は二度にわたって朝鮮に侵攻した。これを,日本では,と呼び,朝鮮ではと呼ぶ。日本軍は,率いる水軍の活躍や民間の義兵の抵抗に苦しめられ,さらに宗主国である明が援軍を送って反撃したため,秀吉の死とともに日本軍は撤退した。秀吉のこの朝鮮出兵は,朝鮮の国土を荒廃させただけでなく,戦費が大きな負担となって明の財政を悪化させた。明との関係が決定的に悪化し,公式貿易が困難となったため,豊臣氏にかわって政権を握った徳川家康は,認可を与えたを台湾・マカオや東南アジアに渡航させて中国人商人と交易させた。
IX-100. 16~17世紀の東アジアの状況(2)
日本と中国との間における日本銀との貿易は,16世紀から17世紀にかけて大きな利益をあげたため,中国人や日本人だけでなく,ポルトガル人やオランダ人などもその利益をめぐって争った。ポルトガル人は,1557年に明により居住が認められたを,オランダ人はを拠点とした。しかし,江戸幕府は諸大名への統制を強めるため,キリスト教を禁止し,日本人の海外渡航とポルトガル人の来航を禁止した。このような管理貿易体制はのちに「」と呼ばれたが,その後も長崎ではや中国と,対馬(つしま)で朝鮮,琉球・薩摩経由で中国,松前でアイヌと交易を行った。一方,中国東北地方では,明の間接統治下にあったツングース系のが16世紀末にのもとで自立した。[ 7 ]は,[ 6 ]を統合し,1616年にを建て,明に対抗した。
ポルトガルは,1887年に正式に[ 1 ]を領有したが,1999年に中国に返還した。
IX-101. 明の混乱と滅亡
16世紀後半に明は,北方からのの攻撃と南の後期倭寇による危機()にさらされた上,豊臣秀吉による朝鮮出兵時には朝鮮に援軍を送る必要があった。さらに17世紀前半にかけては,を統合してヌルハチが建てたの攻撃を受けた。これらに対処するため,軍事費は増大し,明は財政難に陥った。万暦帝時代の初期の16世紀後半,は,検地や新たな税制()を全国的に施行するなど,中央集権的に財政を立て直そうとした。しかし,独裁的な[ 5 ]の中央集権的改革は,地方の有力者である層の反発を買った。その後,[ 5 ]に追われたが建てた書院に集まった開明派の[ 7 ]たち([ 9 ]派)と,宦官勢力と結んだ非[ 9 ]派の党争により政治は混乱した。明の政治が混乱するなか,重税と天災によって各地に反乱が起こるなか,の乱で北京を占領され,1644年に明は滅亡した。
[ 7 ]は,科挙の合格者や退職した官僚経験者で郷里に居住する有力者を指す。