1948年,東西対立はベルリンで先鋭化した。米・英・仏が占領区域で西ドイツ政府を樹立することを前提に,ソ連の反対を無視して西ドイツ占領区域における単独のを行うと,ソ連は米・英・仏が管理していた西ベルリンへの水陸の交通路を遮断した()。西側3国が物資を空輸することで対抗し,ソ連は翌49年に封鎖を解除した。同年,ボンを暫定的首都とする(西ドイツ)と,東ベルリンを首都とする(東ドイツ)が成立して,ドイツは東西に分断された。[ 3 ](西ドイツ)は,キリスト教民主同盟の首相のもと,54年ので主権を回復し,再軍備とNATO加盟が認められて西側の一員となった。
[ 3 ](西ドイツ)は,ドイツ統一が達成された場合に,首都をベルリンに遷しやすいように,首都としてはふさわしくないボンを暫定的首都と定めた。1990年のドイツ統一後,首都はベルリンに遷された。
カテゴリー別アーカイブ: 8.冷戦と第二次世界大戦後の世界
VIII-12. 反共軍事同盟(1)
アメリカは1948年,アメリカ大陸への共産主義勢力の浸透を防ぐために南北アメリカ諸国と(OAS)を発足させた。49年,ヨーロッパにおけるソ連の脅威に対抗して(NATO)が結成された。50年にが勃発すると,アメリカは日本との講和を急ぎ,51年に講和(平和)条約を締結した。この条約で日本は独立を回復するとともに,を締結して米軍の駐留を引き続き認めた。さらにアメリカは,日本を警戒するオーストラリアとニュージーランドの2国と(ANZUS)を締結した。
ANZUSとは,オーストラリア・ニュージーランド・アメリカ合衆国の国名の頭の文字をつなぎあわせたもの。
VIII-13. 反共軍事同盟(2)
1953年に朝鮮休戦協定が成立すると,アメリカはを締結して,引き続き米軍を韓国に駐留させた。54年に休戦協定でインドシナ戦争が終結すると,同年アメリカは(SEATO)を成立させた。中東では55年,(中東条約機構,METO)を成立させたが,58年の革命でイラクが脱退すると,(CENTO)に再編成した。また中華人民共和国に対抗するため,54年にアメリカは中華民国(台湾)と米華相互防衛条約を締結した。
[ 3 ](SEATO)参加国は,アメリカ・イギリス・フランス・オーストラリア・ニュージーランド・タイ・フィリピン・パキスタンの8か国。条約の名称にある「東南アジア」の国は,タイとフィリピンの2か国しかないよ!!
VIII-14. アメリカの動揺
1949~50年にアメリカの不安がかきたてられた。49年,ソ連が原爆実験に成功した上,10月にはを主席,を首相とするが建国された。さらに50年,(北朝鮮)軍が北緯度線を越えて侵攻して朝鮮戦争が始まった。これらの動きを背景に,アメリカ社会では共産主義への警戒が高まり,共産主義者やその同調者を公職から追放する運動()がさかんになった。「赤狩り」とも呼ばれたこの運動で,政府に批判的な知識人やハリウッドの映画人などが標的とされ,言論・思想の抑圧が進んだ。また,57年にソ連は世界初の人工衛星1号を打ち上げたが,これは西側諸国に大きな衝撃を与え,「[ 7 ]=ショック」といわれる。
VIII-15. 「雪どけ」
1953年にが死去すると,ソ連は西側との協調へ外交政策を転換した。55年にインドネシアのでが開催されると,それに対応して同年に米・英・仏・ソの首脳がを開催した。56年にソ連共産党大会で第一書記が[ 1 ]批判を行うとともに,西側との政策を提唱し,(共産党情報局)を解散した。59年,[ 6 ]が訪米し,大統領と会談した。この緊張緩和を,ソ連で出版された小説の名にちなみ「」と呼ぶ。
[ 1 ]批判はポーランドとでの自由化運動を引き起こし,[ 11 ]に対してはソ連軍が軍事介入した。また,[ 1 ]批判は中ソ論争のきっかけとなった。
VIII-16. 第三世界(1)
1950年代に冷戦の緊張緩和が進んだ。53年にが,54年にはがジュネーヴ休戦協定で休戦を迎えた。53年の死去後に始まった「雪どけ」の国際関係を背景に,新たに独立したアジア・アフリカ諸国が東西対立から距離を置いて結束しようという動きが現れた。54年,中国の首相がインドを訪問し,インドの首相と会談して,「領土と主権の尊重・相互不侵略・内政不干渉・平等互恵・平和共存」からなるを提唱し,冷戦下における国際政治のあり方を示した。
インドと中国の関係は50年代半ばは[ 6 ]にみられるように良好だった。しかし,1959年にチベット反乱が勃発してがインドに亡命すると,59~62年にかけて中印国境紛争が起きて対立関係に入った。
VIII-17. 第三世界(2)
1955年,インドネシアので日本を含む29か国が参加した([ 1 ]会議)が開かれた。この会議では,前年に中国の首相とインドの首相が発表していたを発展させたが採択された。さらに61年,インドの[ 4 ]首相,ユーゴスラヴィアの大統領,エジプトの大統領の提唱で,ユーゴスラヴィアのでが開催された。東西対立から距離を置こうとするこれらの勢力を「第三勢力」あるいは「」と呼ぶ。
VIII-18. 核戦争の危機
1960年,ソ連がアメリカの偵察機U2型機をソ連上空で撃墜し,米・ソは再び緊張関係に入った。東ドイツで農業の集団化が推進されると,東から西側に脱出する人々が急増したため,東ドイツ政府は61年に西[ 1 ]との境界線に壁を築いた([ 1 ]の壁)。62年,ソ連がにミサイル基地を建設すると,アメリカ大統領は撤去を求めて[ 2 ]を海上封鎖し,米ソによる核戦争の危機が発生した([ 2 ]危機)。最終的にソ連が譲歩し,ミサイル基地を撤去する合意が成立した結果,核戦争の勃発は回避された。それ以後,米ソは再び緊張緩和の方向に転じ,63年に米・英・ソ3国間でが締結された。
60年に核実験に成功したばかりのフランスと,まだ核実験に成功していなかった中国は[ 4 ]に調印しなかった。その後,中国は64年に核実験に成功した。
VIII-19. アメリカの指導力低下(1)
1965年から始まったベトナム戦争の長期化はアメリカの財政と社会に深刻な影響を与えた。ベトナム反戦運動の高まりと68年の解放民族戦線側の奇襲攻撃(テト攻勢)を受けて,ベトナムへの本格的軍事介入を決定した大統領は再選を断念し,69年にのが大統領に就任した。[ 3 ]大統領は北ベトナム・解放戦線側と和平交渉を進めるとともに,北ベトナム・解放戦線側を援助していたソ連と中国にも対応した。ソ連とは69~72年にかけて第1次(SALT I)を進めて関係改善を図るとともに,中国に接近することによってソ連を牽制した。72年,[ 3 ]大統領が訪中して事実上中国を承認した上で,73年にを結び,ベトナムから米軍を撤退させた。
ベトナム戦争の開始年については諸説ある。ジュネーヴ休戦協定後にできた南ベトナムをアメリカは支援するので,ジュネーヴ休戦協定成立の1954年とする説。南ベトナム解放民族戦線ができた60年とする説。65年は,アメリカが北ベトナムを爆撃し,地上軍を派遣した年である。
VIII-20. アメリカの指導力低下(2)
1944年の会議以後,唯一金と交換できるアメリカのドルは国際経済の基軸通貨であった。だが,西欧諸国や日本が経済を回復させると,アメリカのドルが海外に流出し,ドルの価値が60年代に揺らぎ始めた。ベトナム戦争の莫大な戦費がドルの信用をさらに低下させ,71年にアメリカ大統領はドルと金の交換停止を発表した(ドル=ショック)。国際通貨体制は大きく動揺し,73年にはに移行して,[ 1 ]体制は崩壊した。73年の中東戦争を機におきたは西側先進工業国の経済に深刻な打撃を与えた。こうした世界的な経済・政治問題を協議するために,75年からが開催されるようになった。
[ 6 ]参加国は,第1回が米・英・仏・日・西ドイツ・イタリアの6か国,第2回からカナダも参加してG7となり,97年からロシアが参加してG8となった。だが,ロシアがクリミア半島を併合し,ウクライナ内戦に軍事介入したことをもって2014年にロシアの参加は停止されており,現在はG7である。