VI-24. 帝国主義期のロシアの内政(2)-第1次ロシア革命-

1905年1月, [ 1.日露戦争 ] の戦況が不利になるなか,飢餓の救済と和平を皇帝に訴えようとした,聖職者ガポンに率いられた民衆に軍隊が発砲した [ 2.血の日曜日事件 ] がおこった。これを機に各地にストライキが広がり,労働者は自らの代表を選んで [ 3.ソヴィエト ] (評議会)を組織した。皇帝 [ 4.ニコライ2世 ] [ 5.ポーツマス ] 条約で日本と講和する一方, [ 6.十月宣言 ] を発し,国会( [ 7.ドゥーマ ] )の開設を約束し,自由主義者の [ 8.ウィッテ ] を首相として事態を沈静化させた。だが,翌06年に [ 9.ストルイピン ] が首相になると,自由主義的改革は後退させられた。[ 9 ]は支持基盤を広げるため,農村共同体( [ 10.ミール ] )を解体して自作農を創出しようとしたが,多数の農民が貧困化して社会不安が高まった。
check_icon6[ 6 ]発布後に自由主義者は [ 11.立憲民主党 ] (カデット)を結成し,開設された国会では第一党となった。