IX-96. モンゴル諸部族の台頭

明は,海上交易において民間貿易を禁止し( [ 1.海禁 ] ), [ 2.朝貢 ] 貿易のみを認めるという厳しい交易管理をとったが,内陸の交易についても同じでモンゴルや女真には[ 2 ]の形式をとらせ,規模や回数も制限した。モンゴル諸部族は,これに不満を持ち,しばしば中国に侵入した。モンゴル高原では,元の残存勢力が建てた [ 3.北元 ] が滅んだのち,東部の [ 4.韃靼だったん(タタール) ] と,西部の [ 5.オイラト(瓦剌ワラ) ] と呼ばれるモンゴル系諸部族が勢力を競っていた。1449年,[ 5 ]の [ 6.エセン(=ハン) ] が土木堡(どぼくほ)で明軍を破り,明の [ 7.正統帝 ] をとらえた( [ 8.土木の変 ] )。これ以降,守勢に立った明は [ 9.万里の長城 ] を築き,モンゴルの侵入に備えた。16世紀になると,モンゴルを統合した[ 4 ]の [ 10.アルタン=ハン ] が侵入を繰り返し,1550年には明の都 [ 11.北京 ] を包囲した。
check_icon6[ 10 ]は, [ 11.黄帽派 ] のチベット仏教(ラマ教)の信者となったことから,以降モンゴル人の間にチベット仏教が広まった。