IX-61. 遼

モンゴル系の遊牧狩猟民である [ 1.契丹 ] (キタイ)は,ウイグルと唐の衰退とともにモンゴル高原東部で勢力を強めた。 [ 2.916 ] 年に [ 3.耶律阿保機(太祖) ] が皇帝に即位して [ 4.] (キタイ帝国)を建てた。東方では926年に [ 5.渤海 ] を滅ぼし,西方ではウイグル崩壊後のモンゴル高原を支配下に置いた。[ 4 ]は,五代の後晋の建国を助けた代償として,長城以南の河北・山西の北部( [ 6.燕雲十六州 ] )を獲得した。宋の成立後も華北に侵入し, [ 7.1004 ] 年に宋を兄,[ 4 ]を弟とし,宋が[ 4 ]に毎年多額の銀と絹を歳幣として贈ることを条件とする和議を結んだ( [ 8.せん淵の盟(漢字:さんずいに亶) ] )。[ 4 ]は北方民族に対しては北面官が部族制で統治し,漢人の農耕民に対しては南面官が州県制で統治する [ 9.二重統治体制 ] を敷いて,性格の異なる社会をまとめようとした。[ 3 ]らによって作られた[ 1 ]文字は,漢字とウイグル文字の影響を受けている。